横浜美術館で観たホイッスラー展の、すべての作品を良いとは思わないが、何点かは掛け値なく素晴らしくて、いつまでも絵の前にいたいと思わせる。その良さとはおそらく油彩画というものが長い年月をかけて深く静かに蓄積してきたものの良さで、ホイッスラーのような画家から感じさせられる、前後関係なく少なくともこの時代(十九世紀)以外で活躍した他の画家にはない魅惑とは何だろうかと考えた場合、おそらくその長い年月を経てきた油彩画の歴史のある意味終わりというか、何かがくずれていく予兆のようなものが感じられるというか、切り札のほとんどが既に無くなったことを誰もが感じているなかでこのあと大きな役が揃うことを盛んにアピールしているけどどちらかといえばもう衰弱の方向へ向かいたい、葬儀屋のような立場でいたい、みたいな、そういうことなのかもしれないと思いながら会場をうろついていた。たとえばモネだが、モネは1840年生まれでホイッスラーは1834年で大体同世代。拠点がフランスとイギリスで、しかもモネとホイッスラーを較べることに意味があるかわからないが、しかしホイッスラーの「ノクターン」と称されたシリーズと、モネのたとえば大聖堂シリーズを比較した場合、あきらかな革新性、というより神をもおそれぬ野蛮さを有しているのはモネの作品であり、今の眼で見てもモネの荒くれっぷりは凄まじく、おまえそれはないだろう的な、こいつだめだ全然空気読む気ないわ話通じないわ的な、どうしようもなく取り付く島のないさっぱりあきらめるしかないようなものがあるのだが、それに比してホイッスラーの慎ましさというか小さくまとまった感じというのが何とも儚く、ちゃんと話を聞いてくれて配慮と慮りのある、それゆえに観ていて自慰的に快適であり、その油彩画の鈍い中間色の一様な広がりの、薄っぺらい表面の一枚下からあえて深く憂いへと沈むことに躊躇しない、今目に見えている条件の中だけでどこまでも深く沈降してしまおうとする態度の、そこにたぶん平凡ではあるがそれゆえに共感させるものがあり、これなら観ている側ももう、しみじみと味わい深くその絵肌の上に視線を滑らせ続けていればいいと思ってしまえる。それは実際相当に快楽的な時間で、そのなかでああ、終わる、そろそろ油彩画、というこのやり方ももう終わるな、この手触り、この香りが、もう最期。歴史が終り。これからバタバタと、きっともうこの通りには行かないな。退屈だけどそれなりに良かった時代の終りが来たよ、と思う。十九世紀である。しかし、クールベの切り開いた地平というのは、今のアメリカ抽象表現主義まで知っている視点から見てしまうとかえってよくわからないけど、当時の画家にとってはかなり強烈だった、というより夢の中で感じる痛覚のようなものだったはずで、僕が「油彩画というものが長い年月をかけて深く静かに蓄積してきたもの」と言ってるものも、おそらくクールベがその断面を無残なほどの手つきで切り裂いて衆目に開陳したもののはずで、画面に塗布されたそれ。その寒々しさが、そのまま油彩画と呼ばれたもの、それそのもので、それこそが頭の中に「絵」を生成させるほんの少し手前の箇所のどこでもない、ここにしかない場所を指し示すものだった。しかし僕はここでもう革新者たちのことはあえて忘れておきたい。ホイッスラーは「もし絵画史が今とはまた別の流れだったら」などとSFを読むように別の現実世界のなかでこの画家の作品が二十世紀以降に今とはまったく別に参照されているところを想像しながら観ていたい感じだ。