2年ぶりくらいの再見。しかし成瀬巳喜男を観る理由というのは、やはりよくわからない。なぜこんなに気分の滅入るようなベタベタとした鬱陶しいものを好き好んで観るのか。でも観た。やはり面白いと思った。でも前ほどはげしく興奮するような気分は沸き起こらなかったが。
ウンザリするような出来事や人物に囲まれながらも、高峰秀子と三浦光子だけは、ある種のピュアネスを保持しているようなのだが、でもやがて三浦光子までいつの間にか「向こう側」に行ってしまい、結局、高峰秀子ひとりだけが、自身の誇りというか矜持を絶対に見失うまいとするという、そういうお話とも言えるのだが、その高峰にとって、自分を信じようとする強い意志の源となったのが、かつて自分の家の二階に下宿していた家庭教師で生計を立てていた女性なのだ。この女性は貧乏で家賃の支払いすらままならないにも関わらず、本棚に沢山の本を積め、(誰が描いたかもわからないような素朴な風景画だが)壁には絵を飾り、そして蓄音機とレコードさえ所持しているのだ。「家賃も払わないのにこんなものをもってるなんて贅沢だと思われるかもしれませんけど、でも私はこれくらいの贅沢は許されると思うんです」と微笑しつつ語るその女性に、家主の娘である高峰は力強く「ええ」と頷くのだ。高峰はこの、どう見ても経済的には豊かに見えないような女性に対して、はっきりと焦がれるほど強いあこがれの気持ちをもっている。その後の展開もすべて、その女性をお手本にしているとさえ言えるのだ。如何にも成瀬的だけど、その女性は高峰から蕎麦をご馳走になり、少し話をして、嫌な小沢栄に居留守を使ったりするエピソードを最後に、物語から姿を消してしまう。映画の後半になれば、そのような女性がいた、という事すら、映画を観ている者の記憶から薄らいでしまっているだろう。しかし、この映画ではそのように、さっきまで登場していた人物のことをいつしか忘れてしまう…ということが、それで良いのだと言わんばかりに、おおらかに肯定されているようにさえ、感じられる。あの二階に下宿していた彼女が、高峰の映画後半の行動に薄っすらと影響を及ぼしているのは間違いないと思われるのだが、しかしそのことに気づくも気づかないも自由だし、その事自体はなんら重要な事ではないのだ。それは、映画に限らない、この世の中の切なくも悲しい事実だ。