「スカイ・クロラ」


風景の中を、草薙水素という女性のキャラクターがてくてく歩いていくときのシーン。これは当然アニメだから、それらは一枚一枚が描かれたものなのだが、最近のアニメはみんなそうだが、この作品でも動きというものが実にスムーズで、なんでもない人物の移動シーンにさえ大変驚かされてしまう。草薙という架空のキャラクターが、架空の風景の中を、すーっと恐ろしくスムーズに移動していく。その魅力。それは草薙というキャラクターがまとう魅力でもあるだろうが、まあ僕が普段、ほとんどアニメを見ないから、人より余計に驚いていると思うが、草薙がてくてくと歩く、というこれだけの瞬間に、動画としての、何かものすごいものがあるとは思う。そういうところに根源的な魅力を有するのが、アニメというものなのだろうし、アニメ好きな人は一番根底の部分で、それこそに惹かれるのだろうと思う。本作でいえばそれは、飛行機による戦闘シーンなどでも同様で、こういう戦闘シーンは(質感に強くCG的匂いを纏いつつも、ところどころ実写撮影めいたショットの連携を織り込みつつも)まさにアニメ独特の世界なのだろうと思う。一挙手一投足すべて、動かしている事の根本的な快感というか。すべてのパーツが手作りであって、偶然の要素など微塵も含まれていないことの快感というか、そういう独自なつくられたモノとしてのアニメ。


この映画では正直、登場人物たちがあまりにも青臭く、見ていて、気恥ずかしさを感じずにセリフとかのやりとりを受け取るのは難しい。倦怠とかアンニュイがあまりにも紋切り型過ぎて、いまどきこんな気取った苦悩なんか通用しないんじゃないの?という風にどうしても感じてしまう。草薙水素という女性をあまり魅力的に感じられないのも辛く、というか、ここでの草薙の苦悩というのは、若い時期の一時期に誰でも身におぼえがあるような、超・紋切り型の苦悩に容易に同期できるようなものとしてあり「いつ死ぬかもわからない」という条件さえ、単に終わりなき日常に意味を見いだせない事を浮き立たせるためのスパイスでしかないような感じで、結局自分の生きる意味が云々…な感じに収束してしまう感がある。気の利いたマスターの居る寂れたドライブインでのひと時のやり過ごし方とか、娼館での振舞い方とか、ビールの呑み方も煙草のくゆらせ方もやけ酒ワインのあおり方も相手と一夜を共にしようとするときの態度とかも拳銃を突きつけて殺すだの殺してだのいうのも泣くのも、何もかももう全部、これでもかというくらい通俗的で、紋切り型で、ある程度わかっていたもののここまで徹底的に平坦だと、改めてびっくりしてしまう。


とはいえ、これらも結局は、一挙手一投足すべてを作画して、手動で1からすべて動かしている事の、まるで現実とは違うという事の根本的な部分に忠実でありたいあまりに、やむなく選択されざるを得ない通俗性なのかもしれないなあと想像した。そもそも、彼らは子供でありながら、やけに大人ぶった事をして過ごしているのだが、画面を見つめている限り、カンナミも草薙も、正直大体いくつくらいの年齢なのかが、よくわからなくなってくる。なぜなら、それはアニメの人物だからである。大人とか年寄りのキャラクターも劇中に出てくるので、それらとの比較において、あぁまあまあ若いんだな、と推測できるくらいである。おそらく14歳か15歳くらいということなのだろうか?そのあたりはでも、当然ながら見た感じではなくて理屈でしか受け取ることができない。しかしそれもまた、アニメのアニメでしか得られない特徴であろう。普通に実写で、14歳の男子と女子の役者が、カメラの前で煙草を吸いワインをがぶ飲みしてその後お互いに拳銃握り締めたままでセックスしてるという芝居を実際にやるとして、そういうシーンがあったら、それはまた本作とは全然違うイメージを観客に投げ与える映画になると思うのである。なぜならそこでは芝居であれほんとうに「早熟」で「背徳的」な行為が映っているからだ。でもアニメでは「現実」には映っていない。やってることは同じ事なのだが「スカイ・クロラ」はアニメであるがゆえに、その行為の衝撃に直撃する事ができない。


そもそも、押井守監督が好んで繰り返す、仮想空間での戦闘シミュレーションという「舞台設定」ほど、映画を観ようとする人を興ざめさせるものもないだろうと思うのだが、にもかかわらず押井守はおそらく今後も似たような設定を何度でも使うのだろう。そしてそれこそが、その回りくどいもったいぶった感じこそが、アニメなのであろう。