ユリシーズの瞳


 先日よりもさらに暑さが増した。中央図書館に寄ってから北千住の芸術センターへ。ひどい汗。歩いているだけでかなり消耗する。アンゲロプロスユリシーズの瞳」を観る。ずいぶん前にビデオで観ているはずだが、こんな映画だったっけ、と思うくらい、ほぼ完全に内容を忘れていて、はじめて観たのと変わらない。

 でも先々月くらいからアンゲロプロス映画をずっと連続して観てきて、さすがにほとんど、その手法というかどの作品にも共通する骨格部分のところが、普通に観ているよりも強く感じられてしまうように、すでに自分の頭がなってしまっていて、マストロヤンニとか、ハーヴェイ・カイテルみたいな、まず独りで俯いてうろうろしてる中年男性がいて、その人の動きやまなざしの先に、その人の立つ地面と地続きなものとして、動く背景としての、ものすごい景色や群集の動きがあって、それで、時折、記憶の底からあらわれるかのような、一人ないし複数の女性のイメージがあって、と、そういう基本的に、男性ひとりがぼーっと、現実とも虚構ともつかぬ記憶内空間を追憶・再生しているだけ、といったような、いまさらだけどそういう映画なのだなあ…と、あらためて思った。(「霧の中の風景」はそれだけとは違う何かがあるが。)

 で、ぐわーっと移動する群衆とか、怪物じみた巨大さの土木工事の機械とか、クレーンで宙吊りにされる巨大な石像とか、水に浮かぶ舟の上に立つ人物のイメージは、もう何度も出てくるが、これはこれで見るたびにすげえなあと思うが、しかし、とくに女性のイメージの反復が、あの、向かい合って、感情が高揚して、かたく抱き合い、はげしく口づけ。愛撫…あるいは、向かい合って微笑む。腕をとって、踊る。みたいな、どの作品でも出てくるこのパターンは、さすがにけっこう飽きてくるというところもある。

 他の作品でも本作でも、そういう対象としての、男性からみた女性というものの。異なる場の、ことなる状況下で、そのつど、かたちを変えて反復して、それらがなんというか、アンゲロプロスという作家個人にとっての女性というものが、こういうことなんだろうなあとは思うのだが、でも実際の記憶の内実は、意外とありきたりでしかないというか、そういう印象を、今まで観てきた諸作品に共通するものとして感じてしまった。

 本作でとくに感じたのは、「作る者」としての矜持というか、作り手としての誇りのようなもの。暴力への強い怒り、悲しみに立ち向かう意志というか、困難で悪い状況下において、徹底的に抗ってやるという剥きだしの意志がみなぎっているかのようでもあり、そこには、迫力を感じた。たぶんアンゲロプロスに限らず、大体手法というものは基本的に形骸化するのは仕方がなく、作り手としてそれを避けようとすることにあまり意味はなく、むしろ堂々とマンネリズムに居座ってしまってもよくて、そんなことよりも俺は黙っているわけにはいかない、まだまだ声を出していかなければいけないのだという、その姿勢を鮮烈に打ち出すことこそが重要なのだという事だ。それは作品で何かをうったえている、という意味とはちょっと違って、とにかく結果として作品を作ってしまう、この俺のよくわからないもやもやしたものを決してみずから止めないのだ、という意志が、作品の表面にワックスがかけられたみたいに薄っすらと光沢をたあてているかのように見えたということかもしれない。

 サラエボでの、情況悪化のために、フィルムを現像する事ができない博物館の館長に対して、ハーヴェイ・カイテルは「あなたに、それを現像しない権利はない。」と言う。要するに、早く現像しろよと云ってるのだが「あなたに、それをしない権利はない。」この奇妙な言い方。行動は義務なのだ、あなたは行為せよと。あなたを優先する権利はあなたにはないのだという、この言葉を、自分の中でしばらく反芻してしまった。悲劇の後のラストシーンでも、私は物語を語り続けるという、はげしい意志に満ちた宣言がなされる。まるで作家本人が、決して意気消沈せず前進する気合を剥きだしにしているかのように感じた。