公衆として


公衆トイレで大便をするときの気分について考えていたのだったが、なぜあのとき、あの瞬間だけは、何とも不安な、恐怖感に苛まれるかのような、無防備で頼りない気持ちになるのだろう?と思って、そのことを色々考えていて、とりあえずその理由として思いついたことは、そのときに限っては自分が「公衆」だから、だと思った。そのときだけは、自分は公衆でしかなくて、それ以外の何者かでいられる為の一切の権利は一時的に適用不可になる。自分は正直、公衆トイレで排泄してる瞬間以外では、一度として「公衆」だったことなど無いとさえ思う。というか、あの空間の中で、下半身を晒して、大便を排泄しているときの、あの気分に見舞われている人間の事こそを、世間は「公衆」と名指しているのではなかろうか?…僕は、公衆という言葉の意味をまるで間違って解釈しているのだろうか?でも、実は公衆とは元々、そのような者(ある特定の恐怖と不安に苛まれる者)だったのではなかろうか。しかし今や、公衆電話がなくなりつつあるのと同じ意味で、近い将来はいずれ、公衆トイレもなくなって、携帯トイレを皆が持つようになるのかも知れない。それでますます「公衆」である必要性が無くなっていけるのだ。大抵の人はその方が良いと思うだろう。というか、たまに「公衆」になると、それが如何に過酷な事であるかが身にしみる。