東京国立博物館


絵を描きたいし、読書もしたいので、今日は一日それをするつもりだったのだが、あまりにも天気が良いため外出した。とくに目的もないまま上野へ行って、東京国立博物館の平常展示をみる。でも埴輪や銅鏡や刀や馬具を見ていても、別に何も面白くないのだが、何となく説明文とかを読んでいると、ああなるほどとか思って、そう思ってからもう一度見ると、俄然興味深いものに見えてくるというのは、これはもう仕方が無い事なのか。逆に、何も考えずに、それらを、ああこういうものだ、こういうかたちなんだなあ、と思って見るのもそれはそれで良いのだろうが、まあそんな事はどっちでもいいのだろうが、でもそれはそれで、ひとまず書いてある事を読んでから、あらためてそれを見ると、単なる錆びサビの鉄くずが並んでるだけじゃないのだとわかる。錆び錆びを、錆び錆びそのものとして見るときの自分のイマジネーション能力とかあんまり信用できないので、それなりに人並みにちゃんと読んだほうが今は良いと思った。たしかにそれは興味深いものではある。しかも、遣隋使とかシルクロードとかの影響で、かたちが俄然かわってくるのも面白い。というか、5世紀や6世紀で、こういう甲冑や馬具のかたちを作れるんなら、もうほぼ完成してるよ、と言いたくなるくらいである。なんというか、曲面の決め方や形の断ち切り方に、ほとんど洗練が感じられはじめるのである。しかし5世紀ってすごい…。西暦400年代である。その時代からくらべれば、もうレオナルドやミケランジェロとかですら、全然僕らに近い側の人々である。安土桃山時代だって、ついこの間じゃないですか。それならもう1500年代よりこっちは、現代と思ってもいいかもしれない。神護寺三像は13世紀くらいか。大体、日本の掛け軸の絵なんかで最古のものは12世紀くらいからしか残ってない。書とかならもう少し古いのもあるが。でも仏像とか、立体表現だともっとすごく古いものも残っている。絵というのは昔からあるものなのだろうが、保存性はもっとも良くないものなのだろう。まあ、ああいう、矩形をばんと展開させて、その中に何かイメージをあらわす、という手段自体が、文書とか立体とかとは微妙にずれた、どことなく頼りない伝達方式であるようにも思えなくも無い。で、そんなものだから余計に、やっぱり15世紀より古くなると、俄然すべてがわかりづらくなり、作者も制作年も特定できなくなってくる。海の深さのようなものか。深度数百メートルより下に下降すると、光の遮断や水圧が一挙に重く圧し掛かってきて、人間の認識力がいきなり歯が立たなくなるような。