横浜ベイという名前の酒はないのか。なんとなく、ありそうじゃん。

横浜というと、酒っぽいのだ、でも毎日横浜にいるけど、あまり酒っぽくないな。

中学二年のとき、ジャスミンのお茶、という言葉をはじめて知った。

ジャスミンのお茶を知ったのではなく、その言葉を知ったということ。

そういう風に成立する、という現実を、はじめて知ったということだ。

現実を知るとは、つまり、横浜ベイという曲が終わって、レコードを裏返して針を落とすと、そこに海辺のワインディング・ロードという曲が始まるときの、その感じを知る。ということなのだ。

中学のときというとほとんどすべてが、そういう現実を知ったことの記憶ばかりだ。

それにしても、RCサクセションの「ハートのACE」というアルバムは、今聴くと、ほんとうに音がしょぼい。

もし当時のラジカセで聴いても、今持ってる再生装置で聴くのと変わらないだろう。

その意味では、もうこのようにしか再生できない。もう二度と今までのようには見えない。

仲井戸麗市のGloryDayは、数年に一度、聴きたくなって、これを聴きたくて今でもたまに仕方なく「ハートのACE」を聴くことになる。

レゲエのリズム。ジャマイカからやってきた。イギリスへ。ドイツへ。アメリカへ。船便直輸入。赤道を何度かくぐって。

しかし聴いても聴いても、この曲は、何を言っているのかさっぱり、はっきりとは掴めないのだ。

曲や詞のことではなく、どうも、何を言っているのかを聴く気が、そもそも自分にあるのか、そこが判然としない。

でも数年に一度の頻度で、性懲りもなく、また聴きたくなるのはどういうわけか。何年経っても、かわらずじっと、何を言っているのかを、ひそかに気にしているということなのか。

夜中にたずねて、君を起こしたくて、車を飛ばした、という最後の部分にいたる理由を知りたいと思っているのか、だとして、それでも何度聴いても、ほとんど、理路整然とした話が導き出されるわけでもないようだ。マトモに聴くべき言葉なのかもわからない。

RCサクセション「ハートのACE」85年11月発表。

しかし、暗いアルバムだな。曇天の、冬の光をほとんど通さない分厚い雲の下で薄暗い部屋の中でストーブの赤い光りを見ている。

山のふもとで犬と暮らしている、みたいな、こういう昔作った曲も平然と順々にアルバムに入れていくから、アルバムの中に異なる時代の異なるものが無節操に詰め込まれて渾然となって、得体の知れない全体的な雰囲気をまとう。

それにしても、昨日も今日も二日とも、からっとした天気で良かったな。

先週とはうってかわって、さわやかな秋の空でした。

昨日は丸の内でシャルダン展をみた。これは良かった。

二重橋前で降りて1で出たけど、3の出口から出る方が近かった。先々週の記憶があって勘違いした。

レンブラントみたいな、茶褐色の画面全体にして、静物なら静物の、個々の、描くべきところを描いていって、あたえられた箇所に場を作っていくのだな。

17世紀オランダ風の、もう誰もが好きな、おいしい料理はおいしいように、油彩画の素晴らしく調味された味わいの、実に、よろこばしい。館内は比較的空いてるのが不思議。なんで空いているのだろうか。

むかし、高校生のとき、石膏デッサンの講評会で、先生が「お前の絵は、旅してねーんだよ、なんで、旅しねーんだよ、お前の絵は、ここに溜まった黒のトーンが、ここで、びたっと止まっちゃってるんだよ、この黒い塊はなんだよ、そうじゃねーだろ、この黒はもっと、さーっとこっちに行って、さーっとこっちに広がっていって、もっと呼吸して、もっともっと、いっぱい旅しねーとダメだろう。画面いっぱいに、旅するんだよー」云われたのは僕ではなく、誰か他の人。その人の絵は僕はすごく好きだった。好きというか、ああこの人は力のある人だなと思っていた。上手い下手ではない、何か違う感じ。はっきりとした匂いがあるというか、頑ななものがあるという感じ。繊細さとか、壊れやすさとか、そういうのはじつは意外と、頑なさからうまれる。そういうタイプだったはず。たぶん若いときにはよくある話。

シャルダン静物画を見ているとき、その昔の記憶が蘇って来た。旅ね、そうねえ。と思って、苦笑した。

かたちは旅する。絵画ではいつもそうだ。かたちは、その場に固定することがない。

静物画が、このあとなぜ、セザンヌの地点にまで行ってしまうのか。18世紀に描かれた静物画を見るとき、セザンヌのことを思い浮かべないでいるのは難しい。というか、潜在的な、セザンヌを探す旅になってしまって、そうではない旅程を計画するのが難しい。

なぜ事物は、振動しはじめて、一秒もその場に固着しないのか。なぜ今、目の前にあるその形は、ほかとの関係を良好なものとせず、醜く歪みねじれようとするのか。なぜかたちはかたちであることから逃れよう逃れようと、そのことしか頭にないかのようなのか。

シャルダンや、レンブラントは画面の中で、いったい何を生かすために、何を犠牲にせざるを得なかったのかを考えていた。シャルダン静物に多く見られるモティーフのブドウ。その果実を見ながら、ここに起こっていることは何なのかと。まるで画面そのものを、その場で直接煮沸させて、ぶくぶくと泡立たせて、湯気を立てて沸騰させているかのような、事物というよりは出来事としての、記録といっても視覚的なものではなくて、温度センサーとか天気図レーダーのような、あまりにも暫定的な、一秒後にはまったく成り立たないような、そのような場に備えた、そのような認識の必要性を促すような、茶褐色の画面の中の出来事のマナイタの上のような、まったくよるべなき革命前夜のパリの画面内空間。

買った本は、ジュネの葬儀、すっかり嵌っている開高健のずばり東京、クロードシモンの路面電車をちょっと立ち読みしたが、買わなかった。カネを温存した。またいずれ。買ったワインはオー・ド・プジョーメドックムルソーシャルドネ。ラロッシュのシャブリ。食事は家。

カネを使いすぎだ。みずほダイレクトに申し込む。いくら入っていくら出てるのか、ちゃんと見るようにする。