モダンアート、アメリカン


乃木坂の国立新美術館でモダン・アート,アメリカン−珠玉のフィリップス・コレクションを観る。


最後の方の部屋で有名な人たちが出てくるまでは一部を除いてかなり地味な(というか、単に自分がよくしらない画家の)作品が並ぶ展覧会だが、それがかえって面白かった。19世紀のアメリカに美術なんて存在したのか、などとひどいことを思ってしまったが、当然存在していたに決まっている。アメリカは1865年の南北戦争終結後に経済発展と文化活動の活発化があって、美術館などもその時期以降に出来ていくので、その時点で過去を振り返ってアーカイブされた歴史ということになるわけだ。


作品は前半の19世紀から第二次大戦後くらいまでは、目を見張るようなものはほとんどない印象。アーサー・G・ダヴという人の絵がちょっと面白いくらい。ホイッスラーって、アメリカの画家だったのか。。オキーフはたしかに何かの空気をはらんでいるのはわかるし、形も色も面白いが、しかしこの感じは、アメリカの画家の共通する質感だなあと思う。ルフィーノ・タマヨはもっと良い作品がある気がする。というかタマヨという画家を20年ぶりくらいに思い出した。


などと思いながら観ていき、やがてキュビズムの影響があらわれ始めたあたりと、抽象表現主義前夜の、スチュアート・デイビスやミルトン・エイヴリーやカール・クノスの作品が出てくるあたりで、俄然、胸がわくわくし始める。何か新しいことがはじまる期待感と希望がすごい。ここまででこの展覧会は充分に幸福。このまま残りの部屋に大した作品が一枚も展示されてなかったとしても不満はないと思った。この期待に満ちた空気だけで、何か大きな何物かを皆で待望している予感だけで充分。


アメリカで、マティスの仕事とかキュビズムとかを、なぜこれほど見事に発展させることができたのだろうかと思った。それはアメリカという場が、たまたまそれにとても適した環境だったということなのか。それまではフォーク的だったりリアリズムだったり中途半端なシュールだったり、すごく中途半端なのがアメリカ美術という感じなのだが、モダニズムを途中から引き継いでいく過程は、それまでの雰囲気がいったい何だったのか?と言いたくなるくらい豹変する。この過程のものすごさは本当に謎だ。


で、最後の部屋もやはりなかなか良かった。フランツ・クライン、ロバート・マザウェル、クリフォード・スティル、ヘレン・フランケンサラー、フィリップ・ガストン、リチャード・ディーベンコーンなど。僕は、スティルの本物を観たのはもしかしたらはじめてだろうか?想像してた感じと少し違う感じだった。僕にとってスティルは、なぜかナビ派ゴーギャン、それからニコラ・ド・スタールと同じ系譜でつながっている画家なのだが。。まあ勝手な妄想なのだが、スティルはもっと乾いた感じだと思っていたのだが…。でも見れただけでも良かった。本物を観ないとやはり全然わからないものだ。ディーベンコーンも実にひさびさに本物を観た。こんなにあらあらしいものだったか、と驚いた。ディーベンコーンももっと良いのは無数にあるだろうな。いつか、まとまった点数が観れたら幸せだろう。