北千住の芸術センターでタルコフスキーノスタルジア」。この映画をはじめて観たのは大学生の頃だから今日が二十年ぶりの再見。


映画というのはほんとうに、その、何を観たらいいのか、いったいどういうルールの遊びなのかが、未だによくわからないけど、『「それで、ぼくはどうすればいいのか?」問題』の解決案、として観てしまうような態度が、愚かな若者のよくある観方なのだとしたら、僕も、かつても今もたぶんに映画をそのように観ているのかもしれず、そしてかつての僕はこれを観て多少なりとも助かったというかすくわれたように感じたところはあったのかもしれない、みたいなことを思い出したり。


濃い霧の中を、一台のフォルクス・ワーゲンが走ってきて、停車する。長身でブロンドの女性が車を降りて、歩いて霧の向こうへ消えていく。イタリアの田舎の教会で、キリスト教のお祈りの儀式を見学する。あなたも他の人達と同じように祈りなさいと云われて、その女性は一瞬、その床にひざまずこうとする。


この女性の立ち姿。ブロンドの長い髪に大柄な濃い色のコート。長く鮮やかな色彩のマフラーが長く優雅に首元から垂れ下がっている。黒くて太い縦の線のような、ぜんたいがとても単純なシルエットの立ち姿で、空間のなかにストンと佇んでいる。ああ、二十年ぶりだと思う。思えばたしかに、80年代の「イケてる女性」は、全身像が皆こんなシルエットでした。要するに、コートの肩がしっかりしていて丈も長いから、そうなるだけなのだが、でもこういう女性がカッコよかったのだと。


あなたも他の人達と同じように祈りなさいと云われて、その女性は一瞬、その床にひざまずこうとする。そしてスカートの裾を少しまくって、膝をその床に付こうかとする仕草を見せるが、躊躇して、やがて元の姿勢に戻って、祈らないと告げる。


このシーン。昔凄く好きだったし、今日もそう思った。簡単に言えば、かつて僕もこの女性に共感して、今後、この女性のように生きていけばとくに問題ないと思ったのだ。このあと映画の主人公や他の登場人物がどのようなことになっても、それはそれで、僕はこの女性の、ついにその膝を教会の埃にまみれた床に接することのなかった態度に、自分と同じ何かを見出して、僕の今後は結局これに近いものになるのだろうと短絡的に確信したのであった。


さて、そして今日は二十年ぶりにその先を観た。それだけ経つと結局、やっぱり映画そのものをまともに観てしまうしかできない。元の木阿弥なのだった。映画は詩人の男性と同行の女性がイタリアを巡る話なのだが、宿に着いて部屋の中で男性がぼんやりと壁を見たりベッドに横たわったり窓の外を見ているあたりで、ああ僕も結局は中年になった、こうやって一人でホテルの部屋でぼんやりするしかないことになってしまったという思いで、どうやらここから先僕はこの映画を、結局ふつうに観返すことになるのだろうと思った。


このあと光と水飛沫。空き瓶。といった、如何にもこの映画の、「ノスタルジア」的な、あられもなく美的なイメージを観続けることになるが、しかし寒さ、犬、温泉(腐食・酸化・荒廃…)、湯けむり、霧、といったところに、まるで昨日の自分とつながっているような感触を感じ続けながら、ああやだやだ、年をとって困ったな思いながら、大体この主人公がしょっちゅう何か自分の故郷のイメージを思い出す、回想のイメージが度々あらわれるのだけれど、いったい何を考えて、それが何だというのか、観ているこちらはさっぱりどうでもいいというか、まあ、そこまで言わなくてもいいけど、でも後半、膝下まで水に浸かったまま紙コップで酒を呑みながら泥酔して少女に話しかけてるくだりに来て、ああやっぱり酒かよと思って、ああ嫌だなねえ皆行き着くところは結局一緒だなあと苦々しく思う。


女性の方も、精神世界に興味のあるインドの金持ちと一緒になってどっかに行くとか、普通な、ああそんな顛末だったっけ、と思った。あ、やっぱりちょっと昔っぽいとも。1983年だからあたりまえだけど。まあ、でもやっぱりなんかこの、こういう呼吸感というか、こういう空間と時間の把握の仕方が、やっぱり当時だったのだな。それはアンゲロプロスとかもそうだ。もしかしたら押井守とかもそうなのかもしれない。ごーーーーっという音響の中で、ゆっくりとカメラが引いていく。


映画が終わって外に出て時計を見たら15:00過ぎで、「泥とジェリー」が最終日と知ってあわてて竹橋へ向かう。チケット窓口に行ったら本日は入場無料とのことでそのまま会場へ。やはり予想どおり、岡粼乾二郎のセラミックによる立体作品をひたすら観続けることになる。これはいくら観ても面白すぎた。


観ながらずっと、もし僕がこれとほぼ同じものを作れと言われたら、どのように作るべきかを考えていた。…まず巨大な、数十リットルかそれ以上の容量が入る程度の、大きな巾着袋を用意しようと思う。素材は絹のような肌理の細かい布がいい。口は紐で固く閉まっていて、底の方は空いている。ちょうどホイップクリームの絞り袋みたいな形のでかいやつだ。


そして水粘土は勿論必要だが、水の割合はかなり柔らかめが望ましい。それを、巾着袋の中にどんどん注ぎ込んで、ある程度いっぱいになったら、口を閉めている紐を緩めて、粘土が少しずつ出てきたら、また少し締める。バナナ状になった粘土が、ボテッと落ちる。落ちる場所は出来れば白い陶器の上で、少し湾曲したうつわのような形状の場所がいいと思う。しばらくしたら、また紐を緩めて、少しずつ粘土を出す。粘土は、重力の作用と自分の重みで、狭い口から夢中で出てこようとする。でも口が開いたり締まったりするので、絶えず形状を変えながらひねり出されたような格好で、中の空洞にたまった空気も一緒に出るので、その圧にも影響されて、ところどころ割れたり切れたりもしながら、それでも結局は最後まではみ出してきて、自分の重みでちぎれて落下して、陶器の表面やすでにそこにあった別の粘土にもぶつかって、それでまた、かたちが変わったりちぎれたりして、ぐったりと倒れて、やがて静止する。


もしかしたら、粘土は水ではなくて、暖かいお湯で柔らかくしておいたほうがいいかもしれない。ある程度の温度が粘土の質感や亀裂の走り方、ちぎれ方に影響をおよぼす可能性がある。とくに肌理の感じが変わるだろうし、エッジの立ち方も変わるかもしれない。


なにしろ、それらの形状は外部からの力でかたちに変更を加えられたようにはあまり見えず、少なくとも自分の重さ、自分自身の柔らかさ、自分に掛かる重力や負荷によって、勝手にかたちをかえてそこにあるように見える。だからこれをもし、自分で作るのであれば、自分の手がこれらの材質に一切さわることが出来ないように思えてならない。あくまでも、何かからひねり出して、勝手に落ちたようなことでなくてはならない。何しろ、手でさわったら汚い。手も材質も、両方とも汚れる。


それにしても、これらを観ていると、何か、健康な感じがする。水分と固形分のバランスとして、絶妙な健康さを感じる。小学校の保健室の壁に貼ってある写真のような健康さがある。これは岡崎作品の絵画にも立体にもどちらにも云える。