お金を落としました


お金を落としてしまったのだ。紙幣。一万円を、なくしてしまった。出かけるとき、財布から一枚抜き取ってポケットに入れたつもりだった。でも会計のとき出そうとしたら、ポケットに無かった。仕方が無いから、別に持ってた小銭入れの中の分だけで払って(小銭だけで足りたのは幸運だった)、それで戻ってきてから改めて財布の中や鞄の中を見直してみたけど、やはり紙幣はなくて、どのポケットにもなくて、いまさらのように、あたりをきょろきょろ見回しても当然ない。。要するに僕は、一万円、なくしてしまった。


お金を落としたり失くしたりする、というのは、お金を損する、という事とは意味が違う。お金は元来、得したり損したりするものなので、今回損したとしても、次回は得する事もあるかもしれないし、その逆もあるかもしれないし、要するに損得の変動が普通のことであり、お金自体を見ていても楽しくないけど、損得の折れ線グラフなら見てて楽しいと感じるように、お金自体よりもお金の意味するところのものが肝心という、そういう性質のものなので、だから今回の事が例えば仮に「お金を損した」という出来事だったのだとしたら、それはそれで、まだ気持ちのやり場があるというか。まあ良いのだと思う。しかし、お金自体を落としたり失くしたり、というのは、今の自分の範囲内での、損得なども含めたお金の全体に対して、自分の過失によって不可逆的な瑕疵を与えてしまうという事であり、要するに単なる「損した」という話よりもことは一層深刻なのである。


例えばこの先、僕がこの事を教訓にして、何か上手い事立ち回ったり倹約したり幸運に見舞われたりして、さくっとどこかで一万円くらいを儲ける事ができたとしても、今回の事がそれで「チャラ」にはならないのである。なぜなら「得した」一万円と、「失くした」一万円は、同じ紙幣であるにも関わらず「属性」を異にするものだからである。いわゆる「損得」のレイヤーにいる限りでは、今回「失くした」一万円を回収する事はできない。回収可能性があるのは「損した」一万円のみだ。極端な話、明日、一億円儲かっても、今回「失くした」一万円の欠落を補填する事はできない。一億円は、その一万円とは別のレイヤーに一億円分積み上がり、本来なら「一億一万円」有るはずなのにアクシデントで一万円なくなってる、という事実が厳然と計上されるだけなのだ。(だから本物の一億円なんていらない、と言ってる訳ではない)


今回「失くした」一万円を補填するたったひとつの方法。それは、失くしてしまった「その一万円」を見つけて、取り戻す事だけである。でもそれは不可能であろう。だからとっくにあきらめてんですけど、お金を失くすって、あきらめた後にもじわじわと、あぁーー…っていう風に鈍く凹むよね。。とりあえず、しばらく忘れてたのに、何かのタイミングでふと思い出すとき、いい感じで凹めます。決して「カネが惜しい」訳じゃないのに、悔しくて自分が情けなくて、やがてだるい脱力感にみまわれる。…もう取り返しのつかないこと、無かったことにできないこと…それはは「失くした」という事実であって、そこから煙のように湧き出てたゆたう一万円のまぼろしは、いくら本物の一万円をもって補填し、誤魔化し、覆い隠そうとしてもかなわず、まぼろしの一万円と本物の一万円は今後も決してぴったりと重なり合う事がなく、まぼろしまぼろしのまま、いつまでもひらひらと、ぼんやりとした輪郭を揺らめかせながら浮かびつつけるのだろう…。


まあでも太宰治が言うように、お金は無駄に使おうが失くそうが、それを新たに取得した人のほうで別途有効に使うだろうから、全体的には別に良いのだ。でも食べ物を粗末にしたら、それは捨てるしかないから、食べ物を粗末にする方が良くないよと。