「創造と癒し序説」引用


昨日ウチの奥さんが、絵描きにもあてはまるかもしれないのでこの箇所を読めというので、いわれたとおり読んだらすごく素晴らしい文章だった。なので、ここに引用しようと思ったのだが、結局ものすごく長くなってしまった。…この文章に強く惹かれる理由はやはり、最初の、真夜中の真の暗闇の中で、絶対の孤独の中から何かが生まれてくるときの、あの凍るような孤独さと、熱く滾るような幸福感の、そのまま併存して渾然となったあの感じを強く思い出させてくれる、からだと思う。


1.創作への招待

 創作の過程の最初は甘美ないざないである。創作者への道もまた、多くは甘美ないざないである。それは、分裂病のごく初期にあるような、多くは対象の明快でない苦悩から脱出するためのいざないであることもあり、それゆえに、このいざないは、多く思春期にその最初の囁きを聞くのである。

 多くの作家、詩人の思春期の作品が、後から見れば模倣あるいは幼稚でさえあるのに、周囲が認め気難しい大家でさえも激賞するのはこの甘美ないざないをその初期の作品に感得するからではないかと私は疑っている。思いつく例はポール・ヴァレリーの最初期詩編あるいはジッドの「アンドレ・ワルテルの手記」である。このいざないがまだ訪れなかった例はリルケが初期に新聞に書きまくっていた悪達者な詩である。リルケはその後に一連の体験によってこのいざないを感じて再出発しえた希有な詩人である。そうでない多くの作家は一種の芸能人であって、病跡学の対象になりえないほど幸福であるということもできる。芸能人には苦悩がないとはいわないが、おそらくそれは別種の苦悩である。多少の類似性はあるかもしれないが。

 さらに多くの人は、この一時期にかいまみた幸福な地平を終生記憶にとどめて、己も詩人でありえたのだという幻想を頭の隅に残して生涯を終える。

2.飢えた不毛

 なぜなら、この幸福のいざないは、白紙に直面して己に没入し、己に問い、己に譲る時、たちまち激しい無力感に転じて、人は己の無力、不毛、才の乏しさに直面する。かいまみられた幸福な地平はおおむね雲散霧消する。彼は自己の全経験を投入して、この危機を乗り越えようとする。それは燃料が尽きて船体を気缶に投入しながら前進を続ける蒸気船に似ている。創作がこの段階に進んだ時、もはや新しい体験の素朴な流入は停止し、人は、それまでの内的資産のみを以て事にあたらなければならないこと、たとえば試験場に臨んで蔵書のすべてを持ち込めないことに似ている。

 神秘化は最初の召命体験の後「乾いた不毛」とでもいうべき「アリディティaridity」を通過しなければならないとされる。神がみえなくなる砂漠的不毛の時期である。創作の道を選んだ者も、この砂漠的不毛の危機を通過しなければならないのがほとんど必然である。若きマラルメのように、この時期を「死んでいた」と実感する作家もありうる。

 この時期、彼が呼び出す体験には次第に招かれざる、暗く、陰うつな、言語以前の、あるいは深く抑圧され、さらにはそれまでは解離されていたものが混じってくる。そして、言語はなお断片的であり、それ以上に、語の、句の、化学でいう意味でのフリー・ラディカル(自由基)が乱舞するいっぽう、表現面に打って出ると(つまり書こうとすると)「これはほんものではない」という感覚に圧倒される。

 作家はなお前進していると思いつづけている。この前進感覚、そしていうにいわれぬ「一本の紅い導きの糸」から手を放さないことは死活的重要性を持つ。しかし、前進は同時に退行でもある。

 精神分析家エルンスト・クリスは「自我に奉仕する退行」と「エスに奉仕する退行」とを区別したが、それはきれいごとと私は思う。その区別は実践においてはさほど明確ではない。具体的には、もっとも危険なのは広義の権力欲である。これをもっとも警戒して「野心を完全に軽蔑すること」と明言しているのはポーである。もし、名声を、たとえ死後の名声であっても、求めるならば、すべては空しくなるだけでなく、精神病の危険が待ち構えている(「権力欲なくして妄想なし」とは私の定式である)。

 創作の全過程は精神分裂病の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。これらにおいても権力欲あるいはキリスト教にいう傲慢(ヒュリプス)は最大の陥穽である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。それは、精神病患者の予後の指標の重要な一つがその友人の数、端的には来る年賀状の枚数であることと似た事態である。 (「創造と癒し序説」--創作の生理学に向けて)

中井久夫アリアドネからの糸」295頁〜 より