化学実験


善行や悪行の、その行為自体の本質というか、それ自体の内実を、最終的に価値判断してくれるのは、神様、という事になるだろう。しかし、神様は沈黙し続けるのが基本スタンスなので、いわゆる「最終審判」というのは、永久に訪れない。なので、善行や悪事は、絶対にその本質を外部参照によって定義付けされる事が無い。つまり自分で自分の為した行為について、あれはこういう事だったのだと、自分自身で「信じる」よりほかない。それを信じる、というのは、それを価値判断してくれるであろう大きな存在=神様を信じる、という事になる。もともと人間にとって、善行は神様によって実践が義務付けられている行為である。人間に与えられた人生の時間において遂行すべきミッション、という事になる。しかしその成果に対する評価や判断が、天国以降までお預けにされているため、人間は基本スタンスとして、善行を為しながら天国を信じる、というスタイルにならざるを得ない。


作品を作る、というのは、善行や悪行を為す、という行為とはまったく違う。作品(芸術)をつくるという行為は、神様から要請された行為ではなく、人間が自分自身の価値判断に基づき勝手に行っている行為である。作品を作る、というのは、善行や悪行をよりもおそらく、もっと化学的である。例えばAとBを混合させ、Cを作るようなものである。しかし、目的はCを作る事ではなく、AとBを混合させる事それ自体にある。結果として生成されるCは、目的ではない。それは行為の結果に過ぎず、行為が神様からの要請ではない以上、結果に価値は無い。


AとBのそれぞれの存在や関係は、芸術の世界においてはまったく重要ではないが、この2つがシンクロするかもしれないというところから、作品が生まれる第一の条件が成立する。つまり何かをシンクロさせることに拠ってしか、作品というのは始まらない、ともいえる。理由とか必然性は何でも良いから、とりあえず「何か」と「何か」をシンクロさせて、その結果、別の出来事が発生するよ / 発生しないよ / なくなったよ、という事が、作品である。そして「何か」と「何か」あるいは「別の出来事それ自体」とが、何らかの強い重力同士でひきつけ合う事態が生まれるとき、それは、おそらく気象のような、自然現象に近い何かであるが、コンディションとして、それが発生し、そこにでひきつけ合ったり、引っ張り合ったりする力がもし生まれなければ、実験は失敗だ。