練馬区立美術館「現代の水墨画2009」展


油絵具というメディアは、それだけでものすごい多量の歴史を含みこんでいるもので、それは顔料と溶油の混ざり合ったものであると同時に、美術史の体液みたいなものでもあり、ある意味キリストの血としての赤ワインみたいなものでもあり、極端な話、キャンバスに適当に擦り付けられた油絵の具それだけでも、何かしらの「効能」を発するのは、そういう歴史の発酵成分が濃厚に漂うからではないだろうか。


であるならば、和紙に墨という組み合わせもやはり、油絵の具とは異なるが、しかし同等の重みを伴った歴史を含みこむはずであるが、和紙に墨の方が、そういった、しがらみというか、歴史の重みとか伝統とかから、なぜかやや自由であるように思えるのは、僕の個人的な感覚に過ぎないのかもしれないけど、でもそういう感じもする。和紙に墨も歴史を重ねているのだが、それはもともと特質上、積み重なったりしないようなものだからではないか、などといい加減に思いつきを書いていても仕方が無いのだが…。


いい加減な思いつきついでに、さらにいい加減な事を書き続けるならば、たとえばそこに「美人」がいたとして、その女性をなぜ「美人」と考えるのか?の、人による違いが、そのままメディアの違いのように思う。顔が良い、とか、プロポーションが良い、とか、なんとなく全体の雰囲気が良い、とか、(ピンポイントで)あの唇のかたちが!とか、指が長くて、とか、というタイプと、とにかく肌が白くてツルツルで染みひとつ無くてきめこまかくて、というタイプと…「美の内実」を「イメージ」にみるか「テクスチャー」にみるかみたいな。なんとなくの思いつきだが、前者タイプが油彩で、後者タイプが日本画、みたいな…などと言うとあまりにも馬鹿馬鹿しい気もするけど、でもいわば、その女性を「美人」と思うとき、油彩的に考えるといくらでも過去の参照歴があらわれてくるので、ああこういう美人の系は昔からあるよねえみたいな話に簡単に陥ってしまうのに対し、水墨的に考えると、やや新鮮というか。水墨的というより、テクスチャ寄りな考え方、という事だと思うが。


まあそれはちょっと置いとくとしても、とりあえずあらわれるイメージ、というものがあり、それとは別に、それ自体としてのテクスチャー、というものがある。これらは作品の上で、別々のものとしてあらわれるわけではないのだが、観る者の認識のありようによって両者それぞれ、出たり引っ込んだり分離したり絡み合ったり、その主張の度合いを変えるもので、いわばそれが美術作品というものの機能というか、ほとんどの美術作品が共通してもつ基本仕様である。


現代の作家による、水墨や日本画や、一部の版画などの作品群に対して個人的に感じるのは、そのようなメディアで成立している作品というのは、どちらかというとテクスチャーに対する意識がきわめてつよく、ほとんど神経症的といえるほどの絵肌に対する執着をみせるように思われるということだ。いやむしろ、そこに執着したいがために、墨や岩絵の具や胡粉や膠、あるいはエッチング用インクとニードルをを選ぶのではないかと思うほどだ。


かく言う自分も、紙を支持体に制作しているというとき、紙の質それ自体や、そこに付着する顔料や溶液によって変容する感触それ自体への、ある種のフェティシズムに近いような感覚を自分の中で否定することはできず、そこにイメージとして何が現れるか?という問題と、その「表面・絵肌」が如何なる様相を示すか?という問題を、相互に混交させながら制作に取り組んでおり、しかし「目の満足」に貢献するのは、圧倒的に後者の、すなわちテクスチャーのあらわれそれ自体であるという嗜好を、隠しようがないほど自分の中にたくわえていると自覚している。


そういう自分にとって、毎年練馬で開催される日本画系作家の展覧会シリーズはきわめて刺激的である。というか、自分が普段無意識に感じている「嗜好」が明るみに出されてしまう感じがあり、それは大変楽しい体験なのだが、僕は要するに作品を観て「それだけ」を楽しんでるだけなのではないか?という薄っすらとした自己嫌疑の不安も、アタマをもたげてくるのである。


会場一階の一室目(常設展示室)にある菅原健彦の作品の巨大さとマチエルの豊かさは、それだけでいつまでも飽かずに眺めていられるほど魅力的である。こういう作品を前にしているときの感覚を言葉にしても意味が無いと思えてしまう。それは圧倒的な技量で繰り広げられる演奏を聴いているのに等しい。とはいえ、それを観ている自分はその演奏の鮮やかな技量ばかりに着目しているような気もしないでもない。薄っすらとした自己嫌疑の不安というのは、そのあたりから発生してくる。


中野嘉之の作品は、小品の方が全然そつなく手数も少なく無駄の無い冴えた出来を示していたが、大作の執拗なウネリもよく、おそらく紙自体を削り落として作っていると思われる白く走る線のうつくしさが印象的であり、紙を支持体にするならこれしかない、という気持ちにもさせられる。「イメージ」として現れている、うねる様な「渦」の形態を、僕は少し固くて息苦しいようにも感じたが、しかし紙の表面がかすかにささくれ立ち白く浮上しようとする感じは目をひきつけられる。


正木康子の作品は「イメージ」と「テクスチャー」との折衷を、ほとんどものすごいレベルで実現させた例に思われる。とにかく画面全体に、まるで香りがほんのりと漂うかのようにあらわれる、ぼおっと浮かび上がるようなイメージの茫洋とした感触と、表面の水墨としかいいようのない絵肌との、自分がなんとなくアタマに思い浮かぶ墨という物質の通り一遍な固定的な常識を、軽く裏切られることの快感そのものであるかのようだ。仕事を重ねれば重ねるほど、現れるイメージが画面から数センチ分だけ浮き上がって展開されてしまうような、稀有な画面だと思った。


田中みぎわの作品は、まずなによりもその「イメージ」が、この「テクスチャー」によって実現されていることの強烈な驚きとともにあるような感じだ。水辺のほとりに鬱蒼と茂り、風に揺らぎながら、己が姿をさかさまにして、さざなみをたたえる水面の鏡面に写しこんでいる森林の風景というものの「イメージ」を、水墨一発で描いてしまう。描かれた「イメージ」は、まるで写真に撮った風景が塗布された感光乳剤に焼き付けられて、乾燥するまでにゆらりと自分が含む水分のおもみで揺らいで傾いでしまったかのような感じで、でも、それはすべて墨で描かれている、というものなのだ。いやそれはむしろ、写真的なイメージがもともと、白と黒の快調の内部だけで成立しているに過ぎないと言うことを暴き立てているかのような、それを目の当たりにさせるかのような、水墨だけの仕事なのだ。…あるいは上空を一様に覆う空の層と、地平線の先まで何の遮蔽物もなく広々と広がる地上の層があって、画面が上下ふたつの層に挟まれた視界の広がりとしてあり、そこに雨らしき斜め縦の運動として筆跡が往復されている巨大な作品の、空、地上、雨という元々のイメージが、驚くべきことに、水墨で可能な表情それだけで、それはたしかに空、地上、雨でしかない、という感じで、画面上にダイナミックに生成しており、いやぁこれはもう圧倒的なテクニックというか、超絶技巧とはこういうのを言うんだなあと思った。ある意味、きわめて映像的な「イメージ」ときわめて素朴単純な墨の「テクスチャー」を、余計な演出抜きでそのままぶつけるように画面上で出会わせたときの、その衝撃一発で成立させているともいえ、そのショック性を取り除いたときの、殊に元となる「イメージ」の如何にも映像的な薄さが気になる部分もあるようにも思ったが、でもとにかく、これはもうすごいハイレベルな職人技という感じ。


浅見貴子の作品は、とりあえず絵の前に立って「いったいこれはどうなってるんだ?」と思わずにはおれない。ほとんど魔法のような作品である。とりあえず最初の5分か10分は、画面に顔を近づけて、起こっていることすべてを丹念に見てみて、その、今ここで起こっていることのあまりの多様さをなすすべも無く追いかけることしかできない。それを少し離れて観て、全体はこういう絵なのか、と思うのは、観始めてずいぶん経ってからの事になる。で、それで全容を見た後、また細部への拘泥に戻る以外の選択肢はない。ゆえに、いつまで経っても絵の前から立ち去れないという状況に陥る。誤解を避けるために付け加えるが、それが「複雑」な様相だから観るのに時間がかかるという意味では決してない。いわゆる「複雑さの解読」をしているわけではない。そうではなく、浅見貴子の作品は「単純」なのか「複雑」なのか、その判断すらできない、ということなのだ。単純とか複雑とかいう言葉が成り立つ根拠が、そこに確認できない状況、ということなのだ。いわば「イメージ」と「テクスチャー」との関係が、今まで自分が知ってるどれとも違う、まったく未知の有様を示しているということなのだ。2007年の作品はおそらく以前も観ていたと思うが、2008年のPine Treeと題された作品など、もうすさまじい、圧倒的、としかいいようがない。今まで見てきた浅見貴子の作品の、裏ごしされて掠れたような筆跡や、輪郭に淡く白さを浮かせたまま重なり合う黒いボタン雪のような筆触の連なりの繊細さをひたすら楽しんで来たのと同じように、今回も観ていたのだが、自分個人の印象ではやはり、この展覧会の出品作家中、この作家の作品はある部分において突出した何かをたたえており、それが何なのかというと、すなわち「イメージ」とか「テクスチャー」とかいうことでは捉えきれない何かがあるからだろうと思った。それは、言葉にするのは難しいのだが、おそらく「行為」とでもいうよりほかないものである。浅見貴子の作品に特徴的な、あの巨大な、真っ黒く、ボタッと撃たれた、超・巨大な小豆のような、楕円の筆触の無数の点在は、あれは一体なんだろうか。あれは、樹木の葉であろうか、木の実だろうか、そういう、樹木の側にあるような、樹木の属性のひとつなのだろうか。いやそれはそうでもあると同時に、あの巨大な黒い点は、もはやあれは、作品の画面それ自体に直接穿たれた、物理的な虚空のようにも思えないか。あれは、実際に、作品に無数の黒い穴が空いているのではないか?画面に大小さまざまな口径の、機関銃や拳銃やもっと巨大な大砲で撃ちまくった、ぼろぼろになってかろうじて自分を支えているかのような、絵画それ自体への打撃の刻印ではなかろうか。…どう思った途端に、その圧倒的な「イメージ」と「テクスチャー」すらなし崩しにするような未知の地平を見ているような気になって、ますますその場を動けなくなってしまうのであった。


浅見貴子の作品が強烈過ぎて、それ以降の作品は残念ながらあまりちゃんと観れなかった。なので鑑賞としてはここまでで終了、という感じでした。この展覧会は31日(日)の明日までです。