浅見貴子さんのトーク


昨日は乃木坂まで行き、国立新美術館で「未来を担う美術家たちDOMANI・明日展2009」を観る。その後、丸善で夫婦揃って大量に本を買う。今まで一度に買った本の量としては最高記録かもしれない。とくに妻の買う量が酷い。その後oazoの上で久々にご飯を食べて帰宅。


作家のトークショーでの浅見貴子さんのトークが面白かった。以下は記憶を忘れないようにするためメモ。(僕が無意識で勝手に脳内補正したり改変したりしていて実際のトーク内容と違ってしまってる可能性もあるのでご注意下さい)


アメリカの留学先で、現地で木をスケッチしようとしても、まず光の質が違うので、あまりにも見えすぎてしまって、却って描けないようなことがあった。日本ではこんなふうには見えない。日本でも勿論、午前中はすごく良く見えて、午後になるとだんだん見えなくなるとか、そういうのはあるし、ボストンやニューヨークでも、見え方は色々で、その都度対処するのだが、ともかく光は違った。


とにかく見ないと描けない。木をスケッチする。ものすごく具体的なんです。この作品が木を描いたものだというと、え!?そうなの?という反応を示す人も多い。アメリカでもポロックの仕事の続きみたいに思われたり、展覧会でも白黒の水墨の絵だという印象で通り過ぎられてしまう事もあるが、たまに画面に近づいている人を見ると「お!気づいたかも」と思います。でも私は今までずーっと描いてきていて、この絵がこうなっていくプロセスを全部知っているので、逆に、私の作品をはじめて見る人の気持ちが、私にはわからないんです。だからそれにすごく興味があります。


(私はそれが木だ、という話を聞いて、ものすごく作品の見え方が変わりました、という相手の方の言葉を受けて) え!私のその話を聞くまでは、木に見えなかったということですか??


ちなみに、あの絵とあの絵は、同じ木です。見ている角度とかは違うけど、でもモティーフとしては同じ木です。


昔は人物画を描いていたんですが、人物と背景が別れてしまう、あるいは人物のアウトラインが緩んで(ふくらんで)しまうのが嫌だったのですが、今の技法では、最初に描いた事の衝撃が、絵の最後までのこっているので、それが気に入っています。でも最初に描いたことが最後まで残るというのは、ごまかしが効かないので大変です。裏側に描いていくので、最初に描いたものの後に、次に描いたものが重なっていきます。そういう風に、どんどん裏側に積み重なっていきます。だから表側で見るよりも全然、裏側はかなり真っ黒で、今の状態がどうなっているかも、わかりません。でも、わからないながらも、木を見ているという、木という具体的なものがあるという事を支えにして、どんどん進んでいきます。


でもどこで終わらせるか、というところの決断はすごく悩みます。(フィニッシュとしてアクリルのメディウムを全面に塗布してしまうため、それ以降は加筆できない。)終わるところも悩むし、もしかしたら、描き始めてからこれまでの間で、ほんとうはものすごく良い瞬間があったのに、それを行き過ぎて(とり逃して)しまったのではないか?という事も思います。