円山応挙展を観るために根津駅で下車。猛暑のなかを藝大美術館まで歩く。何となく混んでそうな予感がして、行列してたらすぐ諦めるつもりだったのだが、前方に見える校門前が尋常じゃない混雑ぶりで、うわーこりゃあかんと思いつつ近づいてみると、なんと今日は藝祭の日ではないか。藝祭!そんな催しが、今の時期そういえばあったなと虚をつかれる思い。若い人がいっぱいで、賑わってる藝大を久々に見た。それはともかく美術館はやってるのかと言えば平常通り営業中で人混みもさほどではない感じだったのでチケット買って無事入場した。

 

応挙は偉大な巨匠で、技術的巧緻の先において、絵画に潜在されている絵画性をぐっと前に引き出すような方式を考え出した人とも言えるのだとおもうが、それ以降の画家たちの仕事も観つつ会場内を歩いていて感じたのは、墨というメディウムのあまりの強さということだ。強さというのはインパクトとかそういう意味ではなくて、拘束とか支配の強さという意味だ。この画材は、あまりにも強烈な拘束として日本の前近代から今に至るまでを、その強烈なメディア特性の内側に縛り付けてしまっているのだなあ、、というようなことだった。

 

墨というのは実に豊かで深い表現力があって、そのグラデーションのきめ細やかさには息を呑む。油絵の具が何層にも分かれた超薄膜の重なりによって表現するものを、墨は紙の上にたったの数秒で表現してしまうと言っても過言ではない。制御不可能に感じられる液体の運動そのものを、人工的に制御してイメージへと定着させる、自然と人工のとてもわかりやすいコラボレーション演出素材として墨はとても雄弁な道具だ。

 

たとえば先日、横浜ではげしい雷雨があったけれども、あの連続する稲妻と落雷音を聞いていると、この世界には人間の影が一つもない無人な場所が、空の上でも海の底でも、まだ無尽蔵にあって、そんな場所で、暗い空の彼方で音もなく空気が流動して、放電して一瞬ぱっと周囲が明るくなって、しかしその瞬間をこの世の全ての人間の誰もが知らないし見ていない…みたいな「光景」がきっとあるのだろうなと思うけど、それはだから、たとえば山水画を観るときに感じていることと近いようにも思うし、枯れ野原を鳥たちが飛び立とうとする瞬間を捉えた、その羽ばたき、風に揺らぐ草、の表現、、あるいは雨に煙ってところどころ霞んでいる山谷の景色にも通じるのだと思うのだが、しかしそれにしても、これらのイメージは、少なくとも自分の思い浮かべる内側においては、何もかも墨の世界だなあ、とも思うのだった。

 

これらの作品を観ていて、墨の可能性を追求する、というか、墨の限界枠のなかで超絶的な曲芸を突き詰めるみたいな世界に、どうしても近づいてしまっている、いやむしろ限界枠のすこし手前で、自足してしまう部分がどうしてもあるんだよなあと感じてしまうのだった。

 

逆にそういうことを一番かんじないのが応挙の作品で、応挙にとって墨はそれほど当たり前に扱える道具ではなかったというか、応挙の目的を達成する道具として、墨はそれほど行儀良く扱いやすいメディウムではなくて、むしろそのために新たな解釈を加えられるのを待っている状態だったのではないか、その特性を独自に見出して、そのまま絵画自体へ還元させるような意識をもって仕事をしたのではないか。

 

応挙の作品はものすごく堂々としているし、強さと優美さを併せ持っていて、見事に巨匠面しているから、その弟子やそれ以降の画家たちは、この立派さにずいぶん安心できたのではないかと思うし、その意味では強力な父親の元で以後何百年も仕事ができたということになるのかもしれないと思った。