せめぎあい


雪は朝の時点でほとんどおしまいの感じだった。でも道は乾いておらずかなりすべりやすそうなので歩くのに注意を要する感じで、やや速度を落として用心深く歩いた。桜の黒々とした幹や枝には、まだ新鮮な白い雪の固まりが木の形状を上面から律儀になぞるようにほぼ同じ厚みで積もっていて、黒い木の枝に支えられた雪の白さの、まるで中空に浮き掘られたようなかたちは、まさに障壁画とかに描かれるあの感じそっくりだった。木々の黒さと雪の白さと朝日を反射する濡れた路面と水滴の滴りの感じがなんともキレイで如何にもありがちで凡庸で、きれいだという事はなんとつまらないことだろうかと思った。つまらなければつまらないほどキレイだ。


水墨画での雪は墨の描き残しで表現されるので、雪の雪らしい感じは枝の黒さとか空間のグレーが外側から厳しくふくよかにせめぎ合う事でかたちづくられる。その内と外せめぎ合いの感じというのは、絵画特有の感じだとも思うが、こうして現実の景色を見ると、それは現実に起きている事なのだと思わされる。もちろん最初に水墨画に描かれたイメージから遡行して、現実をそれにあわせて見てしまっているという事でもあるが、しかしそもそも、「かたちを見る」というのはおそらく、形の周り(地)の部分の、かたちに対する侵食の予感にたえず怯えながら、その偶然の現在一瞬のありかたに没入して感じ入っているような状態なのだ。大げさにいえば。