リ・プレイヤー

反復可能性とは、単に何度も同じ音しかレコードから聞き取らないことではなく、レコードをかけるたびに、レコードをかけている場をたまたま通り過ぎるときに、宿命的な世界の本性として音を"聴き直す"ことである。つまり出てくる音が曲の最初に回帰するのではなく、リプレイするたびに偶然の多様性を肯定すること、偶然によって必然(溝に刻まれた音)を肯定することが、環境的な経験の基本である(Deleuze)。逆にレコードの悪しき聴取者とは、そこに機械的な因果関係しか見ず(物理的な信号が刻まれている―だから―再生装置にかければ音信号に変換される)、必然的な循環しか聴かない人間である。反復されるのは生ではなく死(アドルノのいう「物体」)であり、偶然は否定され、何度リプレイしても同じ音しか聴かない。良き聴取者にとってレコードをかけ直すことはまさに遊び直すre-playであるが、それは録音の作業に対して「再び」というわけではなく、盤自体がすでに「再び」なのである。はじめから遅れていることは、レコードをかける人間=遊戯者playerにとって本質的である。遊びは生を重苦しくするのではなく軽くするということでなくてはならない。遊びは今ここにあるもので満たされることではなく、苦悩という否定を引き受けたうえでその報償として歓喜という肯定をえることでもなく、生を直接的に軽くすることである。
 ニーチェにおける肯定の意味をドゥルーズが次のように規定する・「肯定するものとは存在するものを背負い、引き受けることではなく、生きているものを開放し、その重荷をとりのけてやることである」(「レコードの美学」3-1 機会性と経験 217〜8頁」)

いいねーー