美人


美人の女性がいたとする。その女性は、自分の美貌をよりひきたたせるための化粧を施すだろうし、自分をより良くみせるためのファッションに身を包むだろうし、その美貌をより良く、より豊かで、奥行きと深みのあるものとして、引き続き維持するため、これからも多種多様に、実にさまざまな努力を惜しまないのかもしれない。…とはいえ、その努力は、効果的な事もあるかもしれないが、場合によってはまったく的外れな努力でしかない事もあるだろう。というか、実のところその女性は多種多様な「自分を磨く」努力をしながらも、その努力の矛先がどこに向かっているのか、一体、自分のどこが「美人」と呼ばれる要素なのか、何を高め、何を研ぎ澄ませれば良いのか、自分のどういう側面を認識して、より重視すれば、自分の「美人性」を効果的に保守する事になるのか、そもそも自分が「美人」であるという根拠が、自分で自分自身の中に見いだせているのか?…など、ことある事に迷い、考え、明確なこたえを持たないまま、しかしとにかく、その気になって、前向きな気持ちを奮い立たせて、今までと同じように手探りの努力を重ねるよりほかない。そこまで思い積詰めず、深く考えず、自分の美貌と適当な距離をとりながら上手くやれる器用な人も多いだろうし、いうまでもなくそういうひとの方が"しあわせ"ではあるだろうが、それはともかく…。


その女性が「美人」であるとき、その美貌というか「美人」という印象そのものは、前述の通り、その女性本人でも操作できない。もし、そこに、少しでも作為めいた匂いが(本人がその"効果"を操作したいという意志をもっている事が)一瞬でも漂ったり、女性が自分の「美人性」に対して自覚的であるとき、「美人」である事の印象は、一気に変わる。それは「美人」という単独した印象である事をやめ、なにがしかと化合し、何かの「意味合い」となり、「読み取られるべき何か」「認識されるべき何か」となり、もともとの原始的な衝撃性を失う事になる。誰も操作できない、操作されていない事実が「美人」だという印象を形づくる、とさえ言えるのかもしれない。


しかし、そうはいっても、いくら作為や自覚にまみれていたとしても「美人」の美人性そのものが別の何かに変質する訳ではない事も、また確かである。「美人」は常に「美人」であり、それは、変わることにない刻印のようなものだ。だから美人は、驚くべき事に、何度でも「再来」する。それはもはや、この世の中の社会の中の人間の世界を超えた出来事として、何度でも現れる出来事なのだ。


たとえその女性が、どんな人格のどんな人物であったとしても、その女性の「美人」の美人性そのものは、その女性や、その女性を取り巻く世の中のあれこれを超えたところにある。だから、その人物が再びあらわれれば、そのとき、そのときの、新たな現前として、何度でも新鮮な衝撃をもって、そこにあらわれるのは「美人」としか呼びようのない存在なのだ。その一瞬こそが「美人」があらわれた、というべき一瞬なのである。


だから、その女性が「美人」であるというとき、その美人性は、本来、誰のモノでもないし、誰の努力のたまものでもないし、誰の思惑に属するものでもない。それは誰の意志によっても自由にできないものであり、誰の損得とも関係なく、いきなりふいに唐突に、目の前にあらわれる、ある人の「印象」なのである。おそらく、「美人」というものの根本的な衝撃性というのはここにある。「美人」というのは言ってみれば、どこにでもいるありふれた人間のごく一部の表層にあらわれる特殊な印象、に過ぎないのだが、しかしその印象が「誰のモノでもない」感触をたたえているがゆえに、強い衝撃を伴って現前するのだと思われる。そこには何の努力の影も意味合いも読み取るべき謎もない。認識以前に、ただ、美人なのである。ただ、美人がそこにいるという事の、おどろくべきショックなのである。


本稿を(いま背後に立っている)我が妻に捧ぐ