ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス湖畔通り23番地

墨田区の菊川に新しくできた映画館Strangerで、シャンタル・アケルマン「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス湖畔通り23番地」(1975年)を観た。こじんまりとしているが、とても快適な映画館だった。

一人の女が、アパートの台所で料理をしている。家事のために各部屋の室内を動き回る。照明を点けて、明るくなった部屋に入ってくる、室内で家事仕事をする、照明を消して、暗くなった部屋から出て行く、また別の部屋に照明が点いて、女が室内に入ってくる。

女は、椅子に坐って、あるいは台所のガスコンロの前で、あるいは流し台に溜まった洗い物の前で、無表情で、手元を見て、仕事に集中している、あるいは無心で定まった手順をこなしている。

コーヒー豆を挽く、お湯を沸かす、コーヒーを煎れる、ジャガイモの皮を剥く、肉に小麦や卵をまとわせておく、洗ったスプーンやフォークやナイフを拭いて引き出しにしまう、息子の革靴にクリームを塗ってブラシをかける、息子の脱いだパジャマを畳んで枕の下に置く。

ガスコンロにマッチで火をつける、マッチを置き場所、皿洗いのスポンジの置き場所も決まっている。大きなタオルの置き場所もいつも通りだ。ダイニングテーブルの上には何も乗ってない、買い物の帰りに買ってきたものが一時的に置かれるだけだ。あるいは料理の際に調理場として使われる。きちんと掃除されている。すみずみまで、行き届いたものがある。

皿洗いをするとき、水道から水の供給される音が、部屋中を満たす。水道管を伝ってくる水の音は、高くなったり低くなったり、まるで笛の音のように、生き物の呻き声のように、いつまでも部屋に響く。

手動でドアを開ける古いエレベーターの昇降音も、地響きのようにして台所まで聞こえてくる。窓の外の雑踏も、他部屋の音も、すべてがざわざわとした細かい音の断片の混然とした集積になって耳の周りに飛び交う。

家事仕事。その鍋に火をかけてお湯を沸かすこと、シーツを敷き直すこと、買った食物を棚にしまうこと。それらの仕事は一つ一つが、今行われていると同時に、前日も前々日も彼女のくりかえされる行為として、変わらず行われてきたことだろう。

彼女の行動一つ一つから、その気配は強く感じられる。これらの行為一つ一つがすべて規定されたもので、反復された行為の一つだ。

息子が学校に行っている間、たまに子供を預けに来る知り合いの母親とか買い物先の従業員とやり取りすることがあるほかは、彼女はほぼ孤独だ。

グレーのカーディガンにシャツ、黒いスカートの質素な服装だ。髪はゆったりとボリュームがある。もう若くはないけど気品のある雰囲気をもつ女性だ、

日々の家事仕事、服装、外出、買い物、息子の靴の修理、お金のやりくりの場面などで、彼女と息子の暮らしが、決して裕福でゆとりのあるものではないだろうというのはわかる。集合住宅の部屋にいて聴こえてくる様々な音が、その生活の「障壁の薄さ」を如実にあらわす。

息子は帰宅してからも本を読むのに夢中で、食事にあまり気が向かない。彼女は決まり文句のように「食事に集中なさい」と言う。息子は素直に言う事を聞く。これもおそらく、二人の間で何度となく繰り返されたやり取り。

でも母親ってこうだよな、と思う。

スープ、前菜、そして肉料理を順々に出す。食事が終わったら、子供の勉強を少し見てあげる。ラジオを聞きながら編み物をする。時間になったら着替えて、親子二人で夜の散歩に出掛ける。散歩から帰ると、息子の寝台を引っ張り出して、彼を寝かせる。そして一日が終わる。彼女も寝室で眠る。

明け方、とは言ってもまだ外は真っ暗な時間に彼女は起きる。部屋の窓を開ける。部屋着を一枚羽織る。息子がまだ眠っているのを確かめる。息子の朝食の支度をする。息子を送り出す。片付けをして、ベッドを掃除して、着替えて、食材の買い出しに出る。

母、あるいは主婦という存在。このような生活の立て方、生活のための家事仕事の請け負い方、家庭をつくり出す、主婦という在り方。

自分はこのようなひたすら黙々と仕事をする女性を見てつい、母の世代、――もうずいぶん前に亡くなった母の姉とか――を思い浮かべる。今の女性は、もはやこうじゃない、とは言わない。よく知らないだけだ。ただ女性という存在感の一つとして、ここに描かれている反復的行為の積み重ねに、ほとんど歴史的な重みに近いものを感じる、これは本物だ、この強さだな…とは思う。

この映画は、主人公ジャンヌ(デルフィーヌ・セイリグ)の生活を主軸とした三日間の出来事が描かれているのだが、一日目のおそらく午後過ぎから始まって、一日目が終わって、二日目の朝から夜までが終わって、三日目は夜を迎えずに映画そのものが終わる。

だから彼女が日々営んでいる生活のディテールは、映画の冒頭から二日目の午後あたりまで描かれ、それ以降になるとやや調子が変わってくる。

彼女が売春していることは、映画を観る者には映画の冒頭近くですぐ明かされ、客を迎え入れる場面も代価の支払いを受ける場面も、その他の家事場面と並列に描かれて、まさに彼女の一日の家事仕事の一つであるかのように描かれている。この生活が、彼女の働きで支えられているというのが、静かに示されている。

この映画は三時間ニ十分ある。その前半を使ってたっぷりと描写された規律性のようなものが、何か些細なきっかけを元に、あるいは何のきっかけも無く、しかし次第に不気味に崩れていくのが後半の展開となる。

この映画の結末が悲劇的なものになる可能性は、後半の展開でかなり容易に想像できる。その予兆や不安の要素が、後半にきてあまりにも色濃く立ち込めはじめるからだ。

正直、せっかく前半にあれだけじっくりと時間をかけて作り上げた、登場人物のはらむ時間的な厚みが、後半以降それが少しずつ失調して本人の調子が狂っていくことの説明の前提みたいに感じられてしまうのは、やや失望感をおぼえるところだ。

彼女の内面に何が起こったのかを探ることが、この映画の観方ではないと思いたいのだが、この結末だと、そのように映画を解釈するしか手がないような気がしてしまう。

そのような解釈だと、貧困とか母子家庭とか社会的弱者とかの問題に沿って色々考えるとか、または彼女の自分に対するある罪の意識とか、息子への思いとか、最後に客との行為で図らずも感じ取ってしまったのかもしれない快楽の予感?みたいなものをもって、彼女の内面意識を色々と想像するみたいな、そういうことでしかないように感じられてしまうのだが、そうではなくて単に観ているだけですごく面白かったのが、この映画の中盤までだったと思う。

と、ちょっと悪く書いたけど、とても面白い映画だったと思う。最後だけ少し、納得するのが難しいだけで。