「主題歌」


柴崎友香「主題歌」を読了。この小説に関して何を思った、と書けばよいのか、今とりあえずこうして書き始めてからもわからないまま書いている状態であるが、とりあえず一番心を揺さぶられた箇所は、仕事の帰りの夜、主人公の実加が一人でアジア料理屋にてフォーを食べるところだった。なぜかその日の夜のその店は、実加以外にも一人で食事をする同年齢か少し上くらいの女性がいっぱいいて、その人たちを見ているうちに実加は「だんだんその女の人に話しかけてもいいような気がして」きてしまう。でももちろん現実には、いきなり見ず知らずの他人に話しかけるような事はせず、きっともう会うこともないのは、もったいないな、などと思いながら、食事を終えるだけだ。


支払いの際、中国人の女の子にレジで財布の模様を「かわいい」と片言っぽい発音で言われた実加は、うん、かわいい、と相手に笑い返す。この瞬間の切なさというか、ある種の感情の高まりを、なぜか忘れがたいのだ。この「主題歌」という小説でこれ以上のうつくしい瞬間は、これ以降最後まで、ついにおとずれない、とさえいいたくなってしまうほどだ。この瞬間を、もう一度、ほんの一瞬だけでも、再生させようとして「女の子カフェ」や「結婚式の二次会」が行われているかのようにすら感じてしまう。


かわいさ、というか、ある憧れ、というか、何かかけがえの無いような、上手く説明できないがとても大切と思えるような何か、というものは、結局はそれをそのままいつまでも手の内に持って置く事はできず、もったいないけど、きっともう二度と会うこともないようなものなのである。だからこそ、それはせつなくも可愛く、つい泣きたくなってしまうのである。そのような別れ自体がもう、今までに何度も経験して来ている事なのだが、それに抗うのはとても難しい。生きている以上、それに逆らうことはできないのかもしれない。しかし、その可愛さ、その切ないかけがえの無さが、本物である事は確かで、それを皆がそのように感じている事もまた確かなのだ。


しかし「女の子カフェ」の延々と続くかのような時間の流れはなかなかものすごかった。2時間とか3時間とかが平然と過ぎ去って、でもまだずーっとやってる感じというのは、うわーこれはこういうのはあるよなーと思った。こういう延々と続く宴というのはまさに柴崎友香的、という感じがする。フルタイムで働いて、結婚もして家庭ももって、というような人間にとって一番遠のくのが、この手の時間の流れ方というか、こうう時間の手触り感なのだとも思う…。あと、ラストの、愛が去っていくときのいつ子さんの泣きの態度が、この小説全体を鮮やかにリプライさせるみたいに思えてすごく印象的だった。あと、愛が失恋したときの小田ちゃんの「何よ、それ、『別れてくれ』なんて、なんで『くれ』とか言われなあかんの、逆やんか」というセリフには思わず笑ってしまった。


この小説と関係ない事だが、アジア料理店の中国娘のシーンでは個人的に思い出した事があって、僕が以前働いていたところで、あるときたまたま中国人の女性が入社してきた事があって、仮にIさんと言う名前にするけど、そのIさんは言葉も片言だったし、色々と不慣れな点も多く、仕事をするにはなかなか難しい側面もあって、最初の契約期間を過ぎて、結局その人は短期で去ってしまったのだけど、でもとても一生懸命な人で、それは周囲が皆そう感じていたと思う。その一生懸命さは、寡黙さとひたむきさを伴ったもので、それと同時に、自分自身のリズム感というか自分らしさも犠牲にしないようなもので、そのバランスの取り具合は、少なくとも僕にはとても好ましいものに思えた。


会社にとっては、Iさんはとくに必要な人材という判断を下さなかったのだろうし、僕からみても、Iさんは業務上、それほど戦力になり得るような力を持っている訳でも無かったのは事実だった。だからIさんは、とても真面目に、自分なりに与えられた仕事をして、そしてそれが終わると、荷物をまとめて去っていった。


しかしIさんは最後に、とても丁寧なお別れのメールを送ってくれていた。そこには『短い間でしたが、皆さんが、とても親切にしてくれたので、とても楽しく、速く、仕事が出来ました。私は、○○社の皆さんのことが、とても大好き。みなさんさようなら。』…というようなことが、やはり多少のたどたどしさを感じさせる文体で書いてあって、それを読んだ僕は、以後数日間、Iさんの事をしばしば思い出しては、ある種のせつなさというか、いわば「きっともう会うこともないのは、もったいないなあ」…というような、そういう気持ちに近い何かを感じ続けていた。…と、その事を思い出した。