「パンドラの匣」を読む

死と隣り合わせに生活している人には、生死の問題よりも、一輪の花の微笑が身に沁みる。僕たちはいま、謂わば幽かな花の香にさそわれて、何だかわからぬ大きな船にのせられ、そうして天の潮路のまにまに身をゆだねて進んでいるのだ。この所謂天意の船が、そのような島に到達するのか、それは僕も知らない。けれども、僕たちはこの航海を信じなければならぬ。死ぬのか生きるのか、それはもう人間の幸不幸を決する鍵では無いような気さえして来たのだ。死者は完成せられ、生者は出帆の船のデッキに立ってそれに手を合わせる。船はするする岸壁から離れる。
「死はよいものだ。」
それはもう熟練の航海者の余裕にも似ていないか。新しい男には、死生に関する感傷は無いんだ。

(中略)

「いまの青年は誰でも死と隣り合わせの生活をして来ました。敢えて、結核患者に限りませぬ。もう僕たちの命は、或るお方にささげてしまっていたのです。僕たちのものではありませぬ。それゆえ、僕たちは、その所謂天意の船に、何の躊躇もなく気軽に身をゆだねる事が出来るのです。これは新しい世紀の新しい勇気の形式です。船は、板一まい下は地獄と昔からきまっていますが、しかし、僕たちには不思議にそれが気にならない。」

(中略)

僕たちのこんな感想を、幼い強がりとか、或いは絶望の果のヤケクソとしか理解できない古い時代の人たちは、気の毒なものだ。古い時代と、新しい時代と、その二つの時代の感情を共に明瞭に理解する事のできる人は、まれなのではあるまいか。僕たちは命を、羽のように軽いものだと思っている。けれどもそれは命を粗末にしているという意味ではなくて、僕たちは命を羽のように軽いものとして愛しているという事だ。そうしてその羽毛は、なかなか遠くへ素早く飛ぶ。本当に、いま、愛国思想がどうの、戦争の責任がどうのこうのと、おとなたちが、きまりきったような議論をやたら大声挙げて続けているうちに、僕たちは、その人たちを置き去りにして、さっさと尊いお方の直接のお言葉のままに出帆する。新しい日本の特徴は、そんなところにあるような気さえする。

(太宰治パンドラの匣新潮文庫より)

太宰治パンドラの匣」が出版されたのは終戦後の1945年であるが、戦中に「雲雀の声」という、戦災で消失してしまった小説があったらしい。これは謂わば本作のプロトタイプのような小説で、それが戦後になって改めて「パンドラの匣」として生まれ変わった訳だが、「パンドラの匣」が奇妙なのは、ざーっと読んでいるとまるで戦中の事ではないか?というような表現が多々出てくるところにある。一般的に戦後の開放的明るさに満ちた、オポチュニズムに溢れた作品などと云われる事が多いが、改めて読むとまったくオポチュニティなんて感じられない。むしろ右大臣実朝などと同じような滅びの美学というか、殉死美学というか、エゴイズムやエランヴィタールの消滅を願う思いのみによって描かれているようにさえ感じた。戦死がもっとも美しいのだけど、もう戦争が終わっちゃって、仕方が無いから結核患者を登場人物に配した、という見方さえ可能だと思った。作者は明らかにここで戦中における心のありよう、いわば命を羽のように軽いものとして愛することのできるような究極的な極限状況を、ある種かけがえのないもの、懐かしいもの、と感じているかのようだ。そういう意味では「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当たるようです。」という言葉に、あまり単純な楽天性は感じられない。それは如何様にでも生きられる。という事とは逆の、生というものに対する諦念のような悟りめいた何かのようだ。というか、この複雑な屈折感。明るい日差しでありながらどこか翳りのある感じ。日陰や物陰の無い日差しに満ちた空間全体がそのまま、心を根幹から揺らすかのような不安をもって現前している感じを下地にして、どこまでも平静で安寧で甘美な、療養と恋愛の日々を描いたのが「パンドラの匣」で、久々に読んでなるほどこの作品もやっぱりこういう事だったのかもなと今更のように感じた。