「小説、世界の奏でる音楽」を読み始める


保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」…まだ最初の数十頁くらいしか読んでない。本書に限らず、保坂和志の文章を読み進めるのは思ったより時間がかかる。この「思ったよりも」というところがミソで、一見さらーっと読み進めてしまえそうな雰囲気なのに、まともに読んでるととてもさらーっとは行かない。ひとつひとつがものすごく抵抗感のある、ある宙吊りにされた、それだけではどうにも解決のつかないままの内実がとりあえずひとまとまりになっていて、そういうのがただひたすら無秩序に連結している。並列的に連鎖していく感じである。全体の調子とか雰囲気とかなどまるで一眼だにしない強烈な接続で文章が連なっていく感じだ。なのでひとつひとつに、一々引っ掛かるしかない。だから時間がかかる。でも、一見さらーっと読み進めてしまえそうな雰囲気もあるのだ。いやむしろ、これほどややこしい話が続いているのに、なぜこれほどさらーっと読めそうな雰囲気に感じられるのか?逆にそれが不思議だ。


ある事が書かれていて、それに付随して、あるいは影響を受けて、ふと思いついて、などのさまざまな原因から、また別の事が書かれる。そのときある事と別の事に直接何の関係も必然性もないし、そもそも、そうなっている理由というか、全体を貫く意味というか、書き手に意図がない。ある事の結果的にそうなってしまった連なり、というだけである。それがここまで執拗にやられていると、とりあえず読み進めていてまず、普通じゃない感じに驚く事は確かだ。しかしそれを乗り越えて、ひとつひとつを読む。それで、普通よりも時間が掛かってくる。保坂和志の文章というのは、書かれている事以前に、その書き連ね方のレベルで、こんなのありか?という驚きをもたらす。一見、とてもあっさりしているようでもあり、親しみやすいようでもあるのだが、フレーズひとつひとつは極めて切実な動機で作られた硬質な感じを与えるもので、その問いに対してすごく生真面目に取り組まれており、誤魔化したり笑いで流したりもしない。合間合間にこちらの表情を伺ったり休憩を挟んだりもしてくれないから、何か非情緒的な金属的な抵抗感があって、しかしそれがそのまま、シツコイ粘り気をたたえながらのたくりうつような感じ?普通ならこんなにゴリゴリ考えている状況ひとつひとつが、これほど軽やかにあっさりと連鎖していくような事は、日常あまり無いと思われる。でもその結果、思わずぷっと吹き出してしまうような、ほとんど笑ってしまうような感じも多い。


本書でも以前の本でもあったように思うのだが、たとえば比喩という手法のつまらなさを説明するために、参考としてわざわざ紋切り型なつまらない比喩の文章を自分で作って、そしてそのつまらなさを説明しつつ、でも自分で作ったその例文のつまらなさがそこに書き付けられた事でなぜか別の作用を帯びてしまい、仕方なくその状況について別途言及せざるをえなくなる、みたいな独特な自家撞着的な状況があらわれる事があるように思うのだが、そういうところが僕は個人的にとても好きで、そういうところを読むとかなり笑ってしまう。