My Favorite Things


カンバセイション・ピース」を読み進めていて、ビートルズの箇所に来た。「やっぱりビートルズは自分が聴くものではないと思ったのだった」ということばがとても印象的。ビートルズに関する記述はその後もかなり長く詳細に続くが、しかしそれらは基本的に従姉妹にとってのビートルズに関する記述で、それを今の時間になって語り手である私が、今更のようにあらためてビートルズを聴きながら、「それはかつて(自分にとって、あるいは従姉妹にとって)そのようなものだった」ということを確かめている場面で、このシーンは全体として大変印象的で、音楽ってたしかに、そういう風に聴こえるものだよなあと思う。音楽なんて、聴いたうちの1割か2割が、本当に「私がそれを聴いた」と胸を張って言える瞬間で、残りの8割以上は、「それはかつてそうだったなあ」と思っているか、あるいは耳に聴こえていても脳では認識してないか、まあ大体そんなものなのだろう。ビートルズを聴く、などと言っても、実のところ、結局、一生のうちにそう何度も、ビートルズを聴けるものではないのだ。ビートルズを、それ自体として聴くのは容易い事ではない。…なんというか、ビートルズがそのように「再生される」瞬間、そういうチャンス自体が、一生のうちに数えるほどしかないだろうからだ。その類まれなチャンスを運良く捉まえることができたとしたら、すなわち、最高の幸運とともに「作品」と出会うことができたら、それは一生忘れえぬ、作品体験になるのだろうし、そこまで来てはじめて「ビートルズは自分が聴くべきものだ。僕はビートルズを聴くべき人間なのだ」と確信できるのかもしれない。音楽でも、小説でも、美術でも何でも良いけど、そういう風に思える作品を、心の中に有しているというのは、じつはとても幸せな事なのだ。作品というのは、実際の場合、大抵は、よそよそしいたたずまいの、他人の都合によって生まれた、他人の所有物で、「実際のところ、厳密に言えば、これは自分が見たり聴いたりすべきものではないんだよな」と思わざるを得ないものなのだ。