相対性理論の歌


相対性理論の「シフォン主義」と「ハイファイ新書」を先日から聴いていて、そのあまりの凄さに激しく動揺しつつも何度もリピートする中毒症状が今も進行中である。


要するに、何を歌おうとしているのかよくわからない、その目的の着地点がどこまでも先延ばしされて、永遠にどこへもたどり着けない、という感じが、そのまま、楽曲の最後まで行ってしまう、この凄さに尽きるのだと思う。「地獄先生」はとくに聞き流す限り、先生に片思いのまま卒業してしまう女子高生の心を歌っているかのようだが、しかし聴けば聴くほど、そのようなありふれた何かでは全く無い、と思わざるを得ない。というか、全然そういうものではない筈のものが、なぜか恐ろしいまでに切なくも凡庸な恋の歌的な装いを纏って、誰はばかる事無く平然と再生されてしまうところが恐ろしい。受験戦争もう負けそう、とか、最近寝付き悪いの、金縛りはげしいの、などという言葉の唐突極まりない驚くべき立ち上がり方。言葉が本来宿しているそのちからの本性。


「品川ナンバー」は品川ナンバーについての歌なのかと思いきや、次の瞬間にはもうナンバー、ワイパー、ダイバー・・・と適当な韻を踏みつつなぜか結局南の島に行ってしまってパッションフルーツとかの話になってしまうような、考えの脈絡にまったく歯止めの効いてない究極的にダラシないディスコ・ファンクで、繰り出される言葉すべての超インフレ具合に呆然とする。


「学級崩壊」も要するにただひたすら韻を踏みたいだけらしく、学級崩壊進行中、恋愛感情暴走メモリアル、実況中継放送中、実況中継放送プログラム、純愛関係続行中、純愛関係続行レクイエム、純情少年暴走中、純情少年暴走トライアル…と続いていくだけで、でもその言葉の面白さに依存した「言葉遊び歌」などでは断じてないのだ。真に驚くべきは、この歌がそういう作為とはまったく無縁な場所から、おそろしく切ないうつくしさを湛えて鳴り響くことにあるのだ。…この歌とか僕はもう超・好きだ。とくに"純愛関係続行レクイエム"には笑った。


「バーモント・キッス」は世界征服をあきらめて掃除洗濯をする、という物語的ショックだけを喜んでるのが一番つまらない味わい方で、そんなことよりもそこに繰り出される言葉たちそのもののあらわれ、たとえば、二重生活、その日暮らし、破壊工作、むだな抵抗…などという宝石のように輝く言葉群にただひたすら陶酔するのがもっとも正しい鑑賞の作法であろう。つまらない解釈ごっこに淫するのを注意深く拒みつつ、後半の微熱や高熱の37度5部とか38度2部とかを律儀に並べている訳のわからなさまでしっかりと堪能すべきだ。


とにかく、言葉のひとつひとつが、とんでもなく剥き出しのままで、何の脈絡もなくつながって平然とひとつの分節を形成してしまっている感じで、これはとてつもなくすごい詩なんじゃなかろうかと思って改めて歌詞カードを読んでみるのだが、字面だけで読んでもさほど「面白い詩」という訳でもないのが、これまた驚く。やはり楽曲とセットになって、この言い表しようも無い異様な世界ができあがっているのだ。


「凄い!」という気持ちをここに書くために、けっこう沢山引用しようと思っていたのに、引用しても全然意味が無い事に気づいた。字面だけ読んでも駄目なのだ。やはりこれは音楽なのだ。音楽であるということは、言葉の意味するところがそのまま意味内容として作用せず、音楽に属する何かとして作用するということだ。とにかく相対性理論というバンドの楽曲においては、音楽としての詩のポテンシャルに関しては前人未到の境地に達しているという事になるのだと思う。このことだけでももはや、おそらく歴史上名を刻むに値するバンドである。