いないことを救う


カンバセイション・ピースの登場人物たちの、どこまでもひたすら延々と考えを巡らせているのを読み続けていると、これは小説の登場人物が何がしかを延々考え続けている事に対して僕がずっとそのかたわらで付き合ってあげているようなものだと思う。たぶん人は人に対して、小説と読者のように、どこまでもひたすら延々と付き合ってあげることは出来ないので、だからこの本を読んでいるというのは、この本を読んでいるときしか味わえない経験だろうとは思う。この主人公は本当に、果てもなくひたすらどこまでも考えを巡らす。で、それを読んでいる僕は、どこまでも続くその言葉をたどりながら、それを考えているのがこの小説の主人公である、ということで良いんだっけな、それで良かったんだっけな、とたまに思う。

このとき私が感じたリアリティを説明するには私の言葉は、千八百年前に生きたテルトゥアイアヌスの「神の子が死んだということはありえないがゆえに疑いない事実であり、葬られた後に復活したということは信じられないことであるがゆえに確実である」という言葉のような根本的な矛盾を欠いているために弱く、ポッコが手摺りにいるかいないかを同じにできるとしても、チャーちゃんがいないことまでは救わないようだった。

言葉を何度でも練り直し、同じことを何度でも考え直し、何度でも何度でも執拗にやり直さなければならない理由は何か?というと、それはいないことを救うためで、そのために言葉を、というより思考を、弱さから隔てて、それ自体として弱くない何かにしてあげなければならないからだ。いないことを救う…一番難しいことだが、しかしそれは、誰もが求めている事でもある、、、人間である以上…だから本書はおそらくその試みだと思って、読むほうもそれに付き合う。いないことを救う手立てがあるか、を知りたくて読む。