空調


快晴だが、寒風吹きすさぶ一日。まさに身を切るような冷たい風が身体の前面全体に吹き付けて、それに逆らって歩く。目元や鼻の頭や耳朶や指先が、感覚を失い幽かに痛みを発するのを感じながら歩く。これほどの寒さでも、外国からみたらまだ全然なんでもない程度のものである筈だと、寒いときはいつも思う。寒さの相対値として、日本のそれと中国のそれとロシアのそれでは比較にならないほど違うのだろう。あと空調設備の行き届いた21世紀と100年前の20世紀初頭でも、寒さに対する感覚は大きく違うだろうと思う。もちろんそれ以前の時代ともそうだ。というか、一応近代である筈の明治時代の衣服の粗末さというのは本当にものすごい。庶民の話ではなくて、官ですらそうだ。もうかなり昔だが、伊勢の徴古館で見た明治時代の軍服の生地の薄さに衝撃を受けたおぼえがある。こんな粗末な縫製の衣服で、あの中国北東部を行軍したのか?常識的に考えて、戦争する前に寒くて死ぬと思う。でもたぶん人間というのは、それくらいでは死なないのだ実は。。寒さとか辛さとか厳しさとかには、慣れてしまうのが人間というものなのだ…。そもそも、自室で常に暖房を入れている状況というのが、ここ20年とか30年くらいの事ではないかと思う。昔は空間全体を常に暖めようという意識がなかっただろう。居間には火鉢があって、とても小さなコタツ(昭和2〜30年代の映画によく出てくる)があっただろうが、それらは空間全体をエアコンディショニングしてくれるものではない。エアコンディショニング以前/以後の、寒さというものに対する感受性は大きく変わったのだと思う。それは、しもやけ、というものが無くなった事を境目とするのかもしれない。今は、ある区切られた空間の中に限っては寒さというものを無かったことにしてくれるような考え方が普通だ。家にいるときは外の厳しい寒さのことを想像すらしないで済む事を実現させた。家をカプセル化して、その中だけを快適にする。宇宙ステーション的というか。だから高校生くらいの、親とか家に対してやや反抗的な態度の時代がもっとも寒さに強い時代なのかもしれない。なにそろその世代なら、どんなに寒かろうがどんなに快適じゃなかろうが、独りになれる場を好むだろうから。とりあえず成立しているそのカプセル内の空気を拒否したくて、親や身内の息のかからない場を探して、そこをおとりあえず自分に居場所に据える。それはホームレスの原初体形ですらあるのか。そういう場にはエアコンとか暖を取れるものは無く、そういう場でずっと何時間も座り込んで、全身を氷のように冷やしながら、ずっと朝まで本を読んだりもするのだ。非空調時代はそれはそれで幸福なものだ。