多摩森林科学園


高尾の多摩森林科学園に行く。たしか一年前にも行ったと思ってよくよく調べたら二年半近く前のことだった。信じられない。あれからそんな月日が経ったとは…。


前回とは打って変わって、桜が全開の、見物客もたくさんの、すごい盛況な場である。しかしあらためて思ったけれども、ここはなにしろ高尾の山の中の、はげしい勾配がなす高低差の空間的ダイナミズムが圧倒的に面白い場所なのだということで、谷底から上に向かって、斜面をすり鉢状にぐるぐると周回するような順路になっていて、登って行くと下界と上界がいきなり見渡せてしまう。今居る場所の真下が崖のように下っていて、数十メートル下に人が小さく歩いており、見上げれば数十メートル上のルートにも同じように人が歩いている。谷底を挟んだ向かいの山の斜面にも、こちらと同じように人が歩いている。こういう景色というのは、それこそ高層ビル群の窓際で、下のロビーを見て、うえのフロアを見て、向かいに立ってるビルの中に居る人々を見て、という景色から受ける印象と、ほぼ一緒で、上下を行き来できる空間を、豆粒のように小さな人間たちが登ったり下りたりしながら移動するのを、また別の中空に切り出された見晴台座から見ているような、こういう感じはつまり現代的な空間だから実現できるものなのだろうと勝手に思い込んでいたけれども、いやそうではなかった、こうして山に登って桜を見に来る江戸時代や室町時代の人たちも、やっぱり同じようにこういう高低差がなす空間をあたりまえに体験していたのだと思って、そのことにあらためて驚く。桜の花の、空間の一角にばーっと霧吹きで吹いたかのような鮮烈な乳白色は、たしかにあれはあれで、息を呑むようなキレイさではあるけれども、ある意味あの桜というあらわれかたが、かえって空間の奥行きを消してしまうというか、むしろ空間を均質化して一見的なものに落とし込んでしまうようにも思えて、なるほどこのようなキレイさの両義性というか、こうしてわざわざ見えるものを見えなくすることの喜びというものの歴史もまた古いのだなと思わされる。


しかし今更ながら奥行きというものの、写真に写らないことのどうしようもなさには驚いてしまう。iPhoneだろうがどんな立派なデジイチだろうが、原理的にはおそらく一緒で、こことそこと向こうを全部一緒くたにしか扱わないその一貫した姿勢はむしろ清清しいほどだ。なにも写さなくていいから、せめてこの空間感、空気感だけは捉えろよ、と思っているのだが、まったく無駄である。


思うに、空間、奥行き感とは、ボリューム感なのだと思う。こちらに飛び出してくるボリュームではなく、向こう側へ、どこまでも引っ込んでいく、果てしなく引っ込んでいってその到達点が確認できないような、逆のボリューム感であろう。しかし、ボリューム感とは、ただその場でぼさっと突っ立っていて感じられるようなものなのか。ボリューム感とは、私の身体に対するなんらかの抵抗というか、攻撃としてあらわれるものではないか。この私の身体と相容れない、スケールの違い。単位の違い。プロトコルを共有しない、完全なる異質性。それだけでほとんど、死の予感みたいなものではないか。つまりそれは、真の、命の移動が起こる危機の感覚ということなのか。前景と較べて中景が薄っすらと霞んでいるとき、それを見ている者は一瞬息を呑む。そこに常識では計算できないような無謀な何かが広がっていることに直面する。その体験がすなわち、移動なのだろうか。そのような体験のさなかで、愚かにも写真を撮るだなんて、まったく愚鈍な振る舞いだ、そんなことよりも、早く逃げないと、くらいなインパクトに近いのかもしれない。