佐伯一麦「気を接ぐ」を読んでたら、作中で主人公が、借りたばかりのおせじにも上等とは言えないアパ―トのベランダの一角にある物置のような扉を開けると、そこに風呂場が設けてあるのを見て「玄関風呂」を思い出すシーンがあった。尾崎一夫の「玄関風呂」はとても短い掌編だが、読み返してみたら、とても面白かった。
住まいにおける、お風呂というものの不安定さというか、その位置があやふやで決まり切ってないというのは、家庭がゆらゆらと揺らいでる状態を、とても鮮明にあらわすものだと思う。もちろん「玄関風呂」は1930年代で「気を接ぐ」は1980年代が時代背景であるから、描かれた背景も社会も家に対する感覚も異なるわけだが、そんな時代の違いを越えて、風呂無しとか仮設の物件だっていまだに存在することの、家の中における風呂というものの据わりの悪さを、ここに感じ取ることもできるだろう。
風呂に入るときには、衣服を脱がなければならない。家の中で服を脱ぐときに、心身の安全が確保されていないということ。大げさに言えばそれが、家の中で風呂の位置づけが曖昧な状態の帰結となる。安心して裸になれない、水回りであるがゆえに半ば家の外にはみ出すようにしか設置できず、それにともない、風呂に入るなら家から半分外にはみ出したところで裸になるしかない。もっとも隠しておきたい行為が、なかば外に露呈した状態でしか果たせない。
誰でも「家庭」を始めるというときに、まず風呂が、立ちはだかっているのだろうか。それを自分なりに克服することで、家庭の運用がはじまるのか。
それにしても尾崎一夫の「玄関風呂」の明るさは、すばらしいものだ。尾崎一夫が描く奥さんの人物的な魅力、そのすばらしさは、この短編にかぎらないのだが、本作ではことにすばらしい。
まず奥さんが玄関前に「見張り」として立っているあいだに、主人公と子供で風呂に入る。そのあと、主人公が「見張り」で立っているあいだに、奥さんともう一人の子で入る。湯舟に入ってると、奥さんが外から何か立てかけている。少し見えてしまうらしく、スリ硝子は不便だね、とか言ってる。
妻と二人暮らしの僕には想像することしかできないけど、お父さんとお母さんと子供の構成で家庭をやってる人のバイタリティは、ほとんど眩しいほどのものだ。ものを見るときの脆弱な距離感がないというか、嬉しさも悲しさも、しっかりと地に足のついた明確なものとして感じ取ってるというか、そもそも傍観する要素がなくて常に当事者感覚しかもたないような印象がある。自分らがどんな位置付けのどんな家族なのかとか、そんな思考の遊びをやってる暇がなくて、ただ現実とコミットを続けている。そういう家族が交歓し合うユーモアは面白いし、内実が詰まってる感じがある。