鳥の声は、人間にとって好ましく聴こえるものではないことが多い。ことに群生する鳥たちの鳴き声は、獣の叫び声を彷彿させ禍々しく不吉な印象を受ける。見た目と鳴き声のまるでそぐわない鳥も多い。
群生して鳴く鳥、自分の耳に聴こえる音を想像してみたときに、それは音というよりもその場の景色をまず思い起こさせる。音の響きが、空間の広がりをあらわしているというべきか。ひとつのまとまった音ではなくて、複数の音が細かく振動して、崩れたり固まったりしながら、かたちを変え続ける過程の状態をあらわしていて、その広がりがただちにイメージされるからか。
ビートルズのレボリューション9の最後の方で、オノ・ヨーコの声が途切れた直後に、海鳥と思われる鳥たちの鳴き声が聴こえる。リバプールという場所は海沿いでカモメも居ただろうし、もしかして彼らの幼少時から青年期にかけて、その鳴声をさんざん聴いてきた、そのような環境に生まれ育ったのではないかと、想像させるような聴こえ方をする。曇天、凍えるような寒さ、波の高い灰色の海、息の詰まるような、出口無しの、荒涼とした景色を思い浮かべたくなる。
リバプールの海が、いつでも明るく太陽の光に満ちているわけでもあるまい。海沿いで暮らす人にとって、海はどこまでも遠ざかることのできる、果てがないものとしてあらわれるわけでは必ずしもなくて、大抵の場合は茫漠とした、つかみどころのない、分厚い不透明な層か、あるいは決して乗り越えることができない灰色の壁のようなものとしてあらわれるのではないか。すでにそのような限界の景色を、いやというほど見てしまって、それはそういうものだとわかってしまうのが、海沿いで生まれた子供に共通の認識ではないだろうか。そういう認識の通奏低音として、鳥たちの鳴き声が響いているのではないか。