実家には誰もいなかった。誰もいない実家に帰ってくるのは二十代のとき以来だ。誰もいない実家に久々に帰ってきてまず困るのは、玄関や廊下やその先の照明のスイッチがどこにあるのかすぐには思い出せないことで、あちこちのスイッチを押して探し回る。思い出せないのか、当時と今で変わってしまったのか、それすらわからない。

だからもはや他人の家に勝手に侵入してるのと変わらない感覚なのだ。ここはふだん母親が一人で生活していて、しかし妹と姪もかなり頻繁に訪れるのだから、少なくともこの室内は三人にとっては慣れた親しい空間のはずで、さまざまなモノも配置場所から用途から全部その感覚的なものにしたがってあるはずだ。

雑然とした他人の部屋に来たも同然の僕は、とりあえず必要最低限の照明を付けて、暖房のスイッチを入れて、適当な椅子に座って、買ってきた缶ビールの栓を抜く。テレビのスイッチも入れず静寂のままで良くて、その部屋のなかで、何をするでもなく、一人でぼんやりとしていた。

今や物置同然の状態と化している自室の、机の引き出しのなかを確認したりもした。古いもので溢れてはいたけど、べつになつかしくもなかった。五分もその場にいると寒さで身体が芯まで凍るように冷え切った。

母の部屋もちらっとのぞいた。箪笥類や収納類と化粧台のある、台所と違ってかなり整理の行き届いた、ほぼ何もないと感じられるような部屋だった。今では信じがたいことだが、この狭い部屋はかつて家族が食事をとる場所だった。こんな狭小な空間に四人が向かい合っていた、そんなこともあったのだ。

実家はどこですか?今どこに住んでるのですか?そんな質問を受けたら答えはあるけど、ほんとうなら答えはないのだと思う。どこから来たでもなく、どこへ行くでもなく、消失するのである。それが正確な答えに近いはずだ。