Phraselessness

くりかえすが、ぼくは、この伝染病院にいるあいだに、まちがいなく死ぬだろうとおもっていた。ぼくがおもうだけではく、軍医も、おまえ死ぬよ、と言った。(中略)
 あの軍医中尉は、なぜ、そんなことを言ったのか?あんまり酒を飲みすぎると、死んじまうよ、と医者が患者に注意したりするのはわかる。だけど、ぼくは、げんに下痢とマラリアと栄養失調で死にかけており、死にかけているぼくに、なんで、おまえ死ぬよ、などと軍医は言ったのだろう?
 さっぱり見当はつかないが、ぼくが、きょう死んでも、明日死んでもあたりまえみたいな状態にありながら、死にかけている者のマジメさに欠けており、軍医は意識しないで、それをたしなめたのではないか。(「鏡の顔」)


とにかく全編、笑うところばかりの田中小実昌「ポロポロ」であるが、作品「鏡の顔」の上記箇所にも笑った。読みながら、声に出さず表情も変えず外見はまったく普通な状態のまま、ただひたすら笑った。死ぬんだったらちゃんとマジメに死ねよ!!ということだ。ちょっと、この軍医の気持ちはわかる。実際の話が、世間一般というのは、そういうことなので、この軍医はとても常識をよくわかっている人なのかもしれない。本当なら、死にかけている人は、ちゃんと死にかけているようにしてないと駄目なのだ。でもこの主人公は…

兵隊にいく前に東京を見て……という気が、まったく、ぼくにはなかったのは、旅行中の食糧のことがめんどうなのはべつにして、兵隊にいく前に東京を見て……というフレーズが、ぼくにはなかったのだろう。
 そして、前にも言ったが、兵隊にいく前に、というフレーズも、ぼくにはなかった。
 兵隊にいくときは、だれでも死ぬことを考えるというけれど、ぼくは、ぜんぜん、そんなことは考えなかったのも、おなじようなことかもしれない。
 兵隊にいくときは、だれでも死ぬことを考える……というフレーズが、ぼくにはなかったのだ。そもそも、兵隊にいくときには、というフレーズが、ぼくにはなかった。(「鏡の顔」)