木と人


歩道を歩いていると、車道と歩道を区切るようにして等間隔で植えられている木の幹を順々に見ながら歩く事になる。木の幹のハードな質感と形状を見て、そのまま上の方にそれぞれの枝の伸びる方向が拡散していき、ある広がりを伴って、葉を生い茂らせ、花を宿して、自分の頭上、だいたい数メートルくらい上のところに、空に雲があるかのように、それらが渾然となったひとかたまりとなって上空に留まっていることを知る。そのように、等間隔で、葉と花の生い茂ったひとかたまりが、遠くまで連続しているのを見上げていると、木というものは、とくに枝ぶりの感じや葉や花のありさまというものは、木の種類にもよるだろうが、大体が人間の目の高さよりも、よほど高いところにあるものなので、それはまさに木の特徴だな!と思った。木というもののサイズが、人間よりもでかい。人間よりもずいぶん背が高いのである。だから人間にとって木は見上げるように見るもので、そうではない木となると、観葉植物とか、もっと小さな植樹とか鉢植えとかになって、そういうのは歴史的にはやっぱり20世紀以降とか、十何世紀以降に登場したものなのかもしれないが、いずれにせよ木の枝や葉や花の生い茂る感じは人間より高い位置にある事が多くて、多くの場合人間はそれらを見上げるのだ。


絵画において、自分よりも大きいものを描いているのか?自分よりも小さなものを描いているのか?というとき、たとえば木々を書く、というとき、大抵は自分よりもよほど大きな何かを描こうとしているのだと思う。というか、空間を描く、というとき、まず間違いなく自分の身体より大きなものを描こうとしているし、そもそも、その空間内に自分が存在していることが前提だろう。それはまるでクルマを運転するような感じで、このクルマを運転しているのは私だが、私はそのクルマの内部にいる、私が運転することの結果を、その内部にいる私が感じる、みたいな状況である。


では人物を描くというときならどうか。人物というのは、自分とモチーフである相手との距離というのが、どうしても自分と木あるいは空間といったものらとの関係と同等ではない。その関係はどうしても一方的なものにはなり得ない。ある調整の結果として、そこに人物というモチーフが生まれるのだ。その意味では、人物画描かれているというだけで、ある種の事件発生であり、人物が描かれた絵画というのは多かれ少なかれそのドキュメンタリーである。


前述同様、人物を描くというのをクルマの運転にたとえるならば、自分がクルマを運転していて、相手(モチーフの人物)もクルマを運転していて、そのクルマ同士がほぼ同じ速度で横並び走っている状態で、その均衡をなんとか保ちながら、かろうじて僕がそのありさま全体を捉えようとしているみたいなイメージをもっている。