魅了

しかしこのサングラスの女を知ってしまったからには、これより上を想像することはもはや不可能だった。これをもって生涯の理想の女とすることに一片の迷いもない、それほどまでの美しさだった。そうはいっても要するにそれは外見だけのことだろう?いや違うな、内面までをも保証する、完璧な外見というのもごく稀にだが存在するのだ。頭が悪いな、そういうことじゃあない。たいていの場合、人は誰かを見るとき、外見を見ているふりをして、じつは外面など見ずに内面ばかりを見ている、他者の外見と内面は、本当のところすり替わってしまっているのだ。(磯崎憲一郎「終の住処」56頁)


たいていの場合、僕が作品を観るとき、作品を見ているふりをしてあるはずのない「内面」を見ているのだとしたら、それはそれだけの事でしかない。まあそれならそれでよろしい。そういう人生もあって良い。僕は「内面」なしではやっていけないだろうから。僕は、僕がそのように楽しくやって行ってかまわない。


しかしそれは僕の「すり替え」に過ぎず、実のところ作品の向こうには何もなく、目の前に作品だけがあるだけというのが事実だとしたら、その事実としての作品に魅了されるというとき、それは、何かとてつもなく冷たい、鋭利なものに魅了されるということなのだろうか。いや違うな、そういうことじゃあない。冷たくもなければ鋭利でもない、まったくなんでもないまま、しかしなぜか「内面までをも保証する、完璧な外見」をたたえたものとして在り、それに魅了されるということか。しかしもしそうなら、そのように作品に魅了されるというのが、死に魅了されるという事と同じなのか、それともそれはまた違うことなのか。