外見

今年は法事その他が多く、そのたびに親戚と顔を合わせる機会があった。

それで最近になって鏡で自分の顔を見たり、写真に写った自分の顔を見たり、そういうときに、ああ自分の顔は、あの家の一族だとつくづく思う。というか、ここにいるこいつは、あの一族の誰かだ、という印象を受ける。

先日の、姪の子と二人で写ってる自分の写真、あるいは、先月の会社の飲み会で皆さんと並んでいる自分の写真、そこに写っている姿。かならず最初に「え?誰これ?」と思う。「これが俺かあ…」と思う。

自分の外見や、写真に写った自分の像について、きちんと過不足なく認識できているとはどういうことか。これこそ一種の神の視点というか、これぞ本当の第三者視点ということになるのだろうか。あたかもまったくの第三者が見ているかのような自分を、自分で思い浮かべることができるということ。

つまり「え?これが客観視点?」ということで「これが他人の視線かあ…」ということか。

いい歳をして、いまだに自分がどういう外見で、どういう顔をしているのかよくわからないという人は、自分だけではないと思いたいのだが、どうだろう。自己愛がきちんと抑圧されてなくてあやふやなままの、自己認識が子供のままのおじさんは俺だけじゃないと言いたいのか。

いや、もっと拍子抜けするようなリアリズムを感じている。ようやく今、鏡というものをきちんと見ることができるようになりましたということなのかもしれない。鏡に写っているという物理をきちんとわかる、そこから生み出される脳内のわらわらとしたものに惑わされず、単なる光学的現象としての、この私のありようを受け止めることができましたと。で、それがその型枠、いくつもあるテンプレートの一つとしての我が親戚モデルだったと。

自分の後ろ姿を見ることはできないというけど、今は出来るようになった。親戚を思い浮かべて、あれこそ自分の後ろ姿なんだなと、いたって冷静に納得できる、ということはそれを実質見たのと変わらない。自分がそこに存在しているということを第三者視点から観ること、それがようやく可能になった気がする。ああ、自分とはこいつなのかと思う。

父親。僕はまず父親のマイナーチェンジバージョンではあるだろう。加えて60年代以降の親戚世代のバリエーションの一つでもある。自分の外見が、親戚のAさんやBさんやCさんの中の1バリエーションで、それらのMIXであるというのがよくわかる。

あの後ろ姿、あの背中、あの俯き加減…

ここでの話はあくまでも外見的なことだけなのだが、それでも外見上は絶対にあの枠内に自分はおさまる。