保坂和志 小説的思考塾Vol.5の会場の巣鴨へ。終了後、北千住で夕食して帰宅。
もうこれからは、ひたすらどこまでも、とにかく前向きに、今よりもずっと面白くないと、僕も今後はますますダメだな…などと考えていた。どこまでも独自に、どこまでも自分が周りのすべてに魅了され続けて、自分自身にも魅了され続けるような状態でいなければ。少なくとも、そうでなければ私もあなたも楽しくはない。保坂和志の場合「それなら猫はどうなのか?」が必ず先に来る。この時点で狭い人間関係的な考察スコープが最初から範疇外になり、猫たちや犬たち、あるいは無人の海辺の波打ち際に寄せる波のようなものが世界を把握するベースになり、人間的な意味での死も大した意味を担わなくなる。全身麻酔で気絶したあの感じが死なのだとすれば、ただの無でしかなくて、まるで恐れる対象とは思えないという話があったけど、それはわかる気はするが、それでももしその直前に意識があったら、ある種の懐かしさというか、最後の感傷が入る余地はあるだろうか、あるとすればそれは映画か、去年亡くなった父も最期に目の中で映画を観ただろうか。僕も深夜の、あるいは早朝の、人間がまったく存在しない海辺の波打ち際に寄せる波を想像したとき、それに魅了されるところはある。が、いずれにせよまだ生きる時間があるので、とにかく何しろ今よりもずっと面白くないと、このまま行くともっともっとつまらなくなってしまう可能性がある。つまらなくなるとは死んでしまうというか死んでしまうことへの抵抗が無くなるということで、面白くなるというのは死に対して抵抗可能だということになる。