そろそろ、もう寝なくては。


レイ・ハラカミの訃報を知る。享年四十歳との事。驚いた。先週の、中村とうようの自殺にも驚いた。驚いた、というより、二つの死どちらにも、あぁ、近い…。というような、まるで震源地と今こことの距離に驚くかのような、そういうものを感じていた。亡くなったのが有名人であるとか、近親の人であるとか、無縁な人とか、そういうこととは関係なく、死そのものと自分との距離に関する予感というか、妄想。これも歳のせいか。


自分とのすれ違いの感触というか、その死の行く先というか経緯というか、結果的にあなたが死んだのはなぜ?と思い、その死がさらに巡る感じ。季節が巡るように、死が巡るという感じ?…うまく言えないが、季節が巡って、季節の上に死滅する人々がいると言う。そしておなじように死も巡るものだとすれば、我々が皆、季節のようなもので、ひとつの季節が終わるように人が終わって…などという云い方はあまりにも如何にもな感じで全然くだらない。でも何か、理屈ではわりきれない何か、レイ・ハラカミをお迎えに来た何かが、次はまた誰かをお迎えに行くということの、巡り巡るその磐石さ。


人は20年生きた、40年生きた、80年生きたと、色々な時間を生きるが、しかし人は決して時間の上を生きているものではないのだと、どこかで読んだことがある。物理的な時間の長さではない、もっと別の地平を、この世界がなんて素晴らしいんだろう!と感じたとき、その人は20年とか40年とかいう単位とは別に、今そこに生きているというのか。


しかし、こういう話はありきたりな言葉ばかりになってしまってどうにもこうにもだ。


いずれ死ぬんだから、心の準備をとか、悔いのないように生を充実させてとか、そういうのがしょうもないというのはやはり感じるのだ。そんな話よりむしろ僕はわりとパチンコとかを選んでしまう。これは二十台後半以降、僕の場合はそうなってしまった。ギスギスと帳尻あわせするよりも浪費とかの方がマシと思っている。でもまあ、こういうことをクドクド書いてる時点で相当ちまちました帳尻あわせくさいのだろう。


まあ、歳をとるのはおそろしいということだろう。中村とうようの自殺は正直、結構おそろしいと思った。まあでも、そうやって自殺に至ってしまうような事例も含めて、まだまだこうして、色々とありつつ、総じてまあ、面白いは面白いとも言えるだろう。そうなのだ。始末の悪いことに、面白いには面白いのだ。まだまだふつうには。


僕の中にきっとこれから、自分の中の十代とか二十代とかが、いつしか回帰してきて、結局自分は自分だったと思って、そしたら今更のようにそれに気付いて(気付いたとしたら)、やっぱりやりかけの仕事のやり直しとかもするのかなあとも思う。そして、回帰する過去の自分みたいな、やり残していた経過の断面に再度まみえて、そしたらふと、そういうのの片隅に死が当たり前の顔で寄り添うように貼り付いているのかもしれない。