遠景


 図書館まで本を返すので、家から一時間近くかけて荒川沿いを歩いて行った。土手沿いを歩きながら、川とその向こう岸までの景色を見ているのはほんとうに面白い。気が向くと、その景色にレンズを向けて写真を撮ってみたりもするのだが、それをして写ったものを見るたびにいつも思う事だが、この感じはまったく写真に写らない。写真に撮っても無駄だ。これは写真の腕を上達させれば済むという話ではないように思う。これはとりあえず、ここでこうやって見るしかないと思って写真はあきらめる。
 景色が自分を包んでいるのに、写真の景色はまったく自分を包んでいない。ということであれば、それは単純に大きさの問題だろうか。自分の背丈よりも高いような巨大なパネルにこの景色が印刷されているのなら、たしかにまだマシかもしれないが、しかし大きさとも少し違う気がする。遠景とはそもそも何か?と思う。大きなもの、ということだろうか。しかし個物ひとつひとつは小さく見える。小さなものが大量に集まって大きなものとなって一気に視界に入ってくるような状態のことを、遠景というのだろうか。
 大きい小さいということではなく、見終わらない感じが続く、とも言えるかもしれない。自分の立ってる道、芝生、その先の道、ジョギングする人、サッカーをしている子供達、空間の広がり、野球場、野球している子達、親達の自転車、弁当を食べている子達、空の色、ヘリコプター、水上の波、これらが、それぞれ充分な余裕をもって組み合わさっているような感じというか、全部がそれぞれ無理なく動作しているという感じというか。これらの要素は単なる要素ではなく、色であり形であり動きであるのは言うまでもない。というか、すべての個物的要素が、色や形や動きとして、自分にとっての通路であり壁であり穴であって、遠景を見るというのは、比喩でもなんでもなく、自分が実際にそのようなダンジョンを進むことと同然になる。
 この、景色が自分に返してくるものというのは、一体なんだろうか。ある衝撃というか、ビートということか。それは身体が自発的に何かの、次の作用を準備させるために処理速度を上げてヒートアップしている状態なのか。もしかしたら自分は景色を見ているとき、自分でも無意識のうちにこの後なにか次の事をしようとしているのか?これは自分の身体がなければ感じられないことであるのはたしかだが、写真というのは身体がなければ感じられないという前提を、ある程度融通の利くものに変換して、操作可能性を提供する。そしてその余地に生じた自由を収穫する。しかしそう考えると、自分などは普段あまりにも、ものを写真的に見過ぎてしまっていて、写真を見慣れてしまっている。それは、肉眼でものを見ているときですら、写真を見るように見ているということだ。それが日常になると、こうしてたまに遠景のようなものを見たときは、普通に見る感覚を久々に稼動させたということで、身体が久々のことに驚いているだけのことだ。こういうのは、山奥に住んでいる人やほとんど船旅で海の上にいる人だったら、そうは思わないのだろう。というか、十何年前かに結婚前の僕が埼玉県の実家に居た頃でも、まだ遠景的な景色は多かったので、今よりもまだ目の使い方が違っていた。