明治の冬


 とにかく、寒い。きわめて大雑把な計算の元に生成させたような、単純で、まろやかさに欠けた、単一的で容赦のない、のっぺりとしているのに剛直で、乱暴な勢いのみなぎる、そんな空気の冷たさ。両肩をすぼめて、身体にぎゅっと力を入れっぱなしで、首を身体にうずめるようにして、やや下を向いて俯いたまま、小刻みに呼吸だけをする。少しでも身体の力を緩めたら、寒さが体内にまで押し寄せてきて、心肺の通常稼動に影響をおよぼすような寒さ。

 夜になったら、路面がところどころ、薄く白濁したような色に覆われていた。靴の裏でかすかに滑る感触を感じた。どこもかしこも、薄さ一ミリ以下の薄い氷の幕の下だった。
 冷え込みも、今日ほどだとさすがに、歩いていて只事ではなく寒いと感じるが、かえってその寒さの中を歩いているのは、かすかに楽しいものだ。逆に、勢いよく歩きたくなる気分でもある。寒くて寒くて、あまりにも寒くて、しかしこれでも、ロシアや中国よりは、全然寒くないのだ。そう思うと、寒さって何なのか。寒がるこの感じも、結局はある地域内でしか共有できない。

 そもそも、昔の人は、これくらいの寒さでも、早朝に川へ洗濯に行ったりしていたのだ。この寒さの中、着物一枚で外に出て、川の水で衣類を洗う。その意味では、寒さについてだって、昔の人とも共有できない。

 昔の人はすごいとは、僕が子供の頃から思っていたことだ。僕は子供の頃から朝が苦手で、布団から出るのが辛かった。しかし母親は、早くから起きて食事の支度だの何だの、色々としているのを見ると、ほとんど理解不可能というか、昔の人はすごいと思ったものだ。いや、母は別に明治時代の人ではなく、普通に戦後生まれだが、しかし僕から見たらほとんど明治時代、いや、大正時代のお生まれだった人のように思えた。もちろんその頃はまだ、明治だの大正だのという物自体を、よく知らなかったが。