人工


 近所のスーパーまで買い物に行くために外に出たら、天候が素晴らしく、太陽の光が溢れていて、気温も高く、頭の上や顔や背中に、光とあたためられた微風があたって、大変快適なので、そのまま二時間くらい散歩した。植物が芽吹く前兆のような気配が地面のあちこちから漂っている。浮き立つような、何かが充満して細かく震動するような感じだ。あるいは、何の出来事も起きない平穏さそれ自体が圧縮されて溢れそうになっている感じ。昨日は雨が降っていて暗くて、帰宅してから晴れあがったらしいが、僕は部屋の中にいて晴れたことに気付かなかった。昨日までは、ずっと寒くて雨が降っていて暗い日中しか知らなかった。たしか先週の週末も同じような天気だった。ここしばらく、とにかく暗い日中が続いた。暗さをひたすら味わうための時間だと思っていた。そういえば、先週歩いた代々木公園に、まだほとんど花をつけておらずじっと寒さに耐えているようなミモザの木があったが、今日散歩していたら、やはりミモザを見かけた。見事に満開に近いような状態で、黄色の花がこぼれるほどに溢れていた。代々木公園はたしか、雨の降る中、渋谷からbunkamuraの脇を通って、富ヶ谷方面へ歩いていき、右手に緑が見えてきて、公園の入口まで辿りついてあたりを見渡したが、まるで夜のように暗かった。それが先週だった。代々木公園はもしかすると、一年中いつどのようなときでも、これほどの暗さに包まれた公園なのだろうか?とさえ思ってしまったほどだ。日中の暗さは、木々の下半分が影で真っ黒になり、上半分もほとんど色素が抜けてしまい、空気中に、香りも色もない。ただ何もあらわれない、目の前に広がりがあるだけの状態だ。木を見ていても、木の幹の表情や、咲きかけの梅の花も、それを見ても、ただ形だけを確かめているに過ぎない。薄ぼやけた視界のところどころに、黒い紙を切り抜いた形が貼りついているようなものだ。こういう曇天の暗い日中になら、建造物を見る方が代々木公園の木々を見るよりも良さそうで、公園を通り抜けて、そのまま道なりに明治神宮に向かった。明治神宮に行ったのはたぶん生まれてはじめてではないか。あるいはもしかすると、幼い頃に来ているかもしれないが、記憶にはないので、実質的にはやはり初だ。大鳥居の太い柱に、雨の水がしみ込んでいて、この鳥居は檜で、台湾の樹齢千年を越える巨木を伐って、昭和四十六年にここまで運ばれたそうだ。浸した半紙に墨がのぼるように、その巨大な木の柱に、雨が染みこんでいて、乾いたところから濡れたところまでの諧調がうつくしくて、曇天の真っ暗な空の下でしばらく見ていた。建造物がたとえば百年前に建てられたものであれば、その時間は楠の苗木も巨木になるほどの時間だが、百年程度なら、まだそれほどでもないとも言える。百年なんてあっと云う間だったとも思える。建造された人工物だとそのように見下したい気持ちになる。しかしそれでも、そのように雨の水を吸い上げている。そして一様に暗く単色の中に沈んでいる中で、自然はほとんど隠れてしまい、視界はかろうじて人工物のかたちだけがぼんやりとしか見えなくなっている。暗い日中では自然のものよりも人工物を見ているのがふさわしいようだ。しかし今日のように、明るく太陽の光が降り注ぐような日だと、人工物がかえって色をなくしてしまう。自然のものが色を溢れ返しているのに、人工物は影の中に隠れてしまい。黒一色に塗りつぶされてしまって、自然の奥に区切られた形をなして静まり返っている。