内視鏡


 冷たい雨の降る中を駅まで歩く。プラットホームに立っているだけでも、とても寒い。電車が五分も来ないだけで身体の芯まで冷え切る。来た電車に乗り込む。車内は空いている。川に差し掛かった電車が鉄橋を渡って、街並みを見下ろしながら、次の駅へ向かう。呆然とした顔の中年女性と真下を向いたスーツ姿の男性が向かいに座っている。その後ろ側の景色が曇り空と雨で灰色の幕に覆われたままゆるやかに流れていく。暖房の暖かさに過剰な安らぎをおぼえる。この後、もう二十分か三十分もしたら、自分が診療台に横たわっている。その後、午後には家に帰っていることだろう。横たわっている自分を想像する。

 それが、まさに今だった。気付くと、もう逃げられない、この今が、現実だ。ついに診療台まで来た。これから、リアルに胃カメラをのむ。麻酔で死ぬかもしれなかった。でもさっき既に麻酔は飲んだ。もしかするとこれから、とても痛いことをされるかもしれない。それでも痛みとは、いったい何だったのか。これから痛いですよと言われてから、痛いことをされるときの痛みは、いつも不思議だ。これはいったい、何のことかと思う。

 鼻の穴をどちらか選べと言う。自分の、右か左か。どちらの方が、より開いているのかを考えるが、咄嗟にはわからない。息を吸ってみて、どちらの穴から空気を吸えるか。右からの方が、鼻の奥に冷たい感じがした。右の方で頼んだ。

 鼻の中にねばねばした液体を注ぎ込まれた。液体は溢れて、口元脇へ流れたのがティッシュで拭かれた。鼻の穴いっぱいに、液体が注ぎ込まれている。苦しくなったら飲み込んでも良いと言う。苦しくはないが、飲み込みたいという感じが動いている。しばらく待たされて、寝そべっているのが飽きてきた頃に、始めましょうか、と言われて、しばらくの間、あのモニターを見ていろ、たとえ苦しくなっても、顎を上げて見ていろ。と言われる。

 四畳半くらいの部屋の隅にベッドが設置されていて、そのベッドに身体を横向きにして、僕は、背中に壁をぴたりと押し付けたような格好で寝そべっている。汚しても良いように、顔の前には紙ナプキンのようなものが敷かれている。反対側の壁のまったく何もない広がりの中央に、小さめの液晶モニターが直に壁付けされていて、画面の映像は担当医が手に持っている細長い管の先のカメラが、見ている室内の壁や天井や何かを激しく揺らぎ明滅しながら映してる。

 では行きますよ。と言われて、鼻の入口に管があてがわれると、映像はまさに、はじめてカメラが人間の鼻の穴に入ろうとしているところだ。鼻毛の密集したピンク色の肉の壁の鍾乳洞に分け入っていく。そのまま躊躇なく容赦なく進んで、少し違和感がありますよ、と言われて、鼻の奥にたぶん貼ってあった防御ラインのようなものを越えて、軽い圧迫を感じた後、そのまま鼻の奥のさらに奥の、それ以上は、普通なら何も入ってこないし、何かが入ってくることなど想像もしないようなラインを、軽々と通過してぐんぐんと進んで、後は自分の体内のこととは思えない、暗く湿った映像が映し出されている。カメラの移動速度は、とても早い。これが食道です。はい。これが胃です。もう着きました。数秒で胃の内壁だといわれる。その映像を見ていた。

 魚を包丁で捌いたら、内側にピンク色の肉があるのと同じで、自分の身体の裏側も、粘液に濡れたピンク色の内壁がある。その内側を見ている。しかし、まるで夜のように暗いのだ。懐中電灯で照らした先の壁が、自分の胃の壁だという。手探りで進むしかないような薄暗い室内。すると担当医は手元でスイッチを操作して、そうしたら、パッと電気がついて、胃の中が明るくなった。やっと、このくらいの広さか、間取りはこんなものか。それがわかって、東北地方のカマクラの中みたいな親しみが湧いた。少し休みましょう、その場に腰掛けた。

 挿入されているその管は二重構造になっていて、胃まで達したら外側の管はひたすら撮影を続け、内側の管はとっかえひっかえ、それぞれの役割を持つ色々な管に取り替えられる。内側の管だけすすすっと抜かれて、替わりの管をすすすっと差し込まれて青い液体がぱっと胃壁に噴射される。内側の状態をよく確かめるための処置だそうだ。噴射されたという感触は感じない。ただ映像で見ているだけだ。その後、さらにまた別の管に差し替えられて、今度は組織の一部を取られたようだ。取った後が、軽く出血している。この出血は五分程度で納まるとのこと。でも、血が出ているのは確かだ。痛くないのだろうか。腹の中では何も感じてない。胃の壁は何も思わないのだ。それを映像で見ているだけだ。見ていると、腹の具合を感じるというのが、どういうことだったか忘れた。

 検査自体は、五分程度で終わりだ。五分間の映像体験だ。すーっと管が抜かれていく。胃を抜けて、食道を抜けて、あっという間に抜けた。終わって、少し安めと言われて放置される。カーテンを引かれた。担当医も看護士も退室してしまった。ドアが閉められて、十分間くらい、一人にさせられた。ゆっくりしていて良いと、看護婦は言う。はい、と返事をしたものの、少し戸惑う。今、何かをすべきなのかを考えた。でも良いアイデアも浮かばなかった。あるいは何か考えるべきことがあるのかとも思った。でもそれもよくわからない。仕方がなく壁や天井を見るともなく見ていた。