All of You

朝の電車内でスマホで確認したらFさんの昨日付けの日記がすでに上がっていることに気付いて驚く。しかも大長編…。これすべてが昨夜のうちに書かれたのか、号外を準備する新聞記者のような驚くべきスピードとパワー。

ビル・エヴァンスの「All of You」を何度でも聴くというのは、あの夕陽のような、明るさと寂しさの混ざったような旋律の下にある複雑な様相に何度でも入り込むということ。ヴィレッジ・バンガードビル・エヴァンススコット・ラファロとポール・モティアンは、まるで相手を意に介さずそれぞれてんでばらばらに勝手に自分のやりたいことだけをやっているような感じで、たまに聴くと、やはりこのトリオはちょっと狂ってるなと思う。とくにスコット・ラファロは、ありえない。右チャンネルと左チャンネルに分かれて二人のフロントマンがそれぞれ別の演奏を同時に吹き込むようなフリー系の演奏というのがあるけど、このトリオはちょっとそれに近い感じもある。逆にこういうベーシストでこういうスタイルのピアノトリオというのが、以降の歴史には存在しないように思われる(勿論僕が知らないだけかも、だが)。あまりにも個性的過ぎて、真似してももはや意味がないのかもしれない。

ビル・エヴァンスの「All of You」を何度でも聴くというのは、そのときそこに何が聴かれているのだろうか。まずはある瞬間ごとにそのフレーズに身を委ねているかのような、ピアノの旋律一つ一つを聴き、連なるその関係の物語を聴き取ろうとするのだろうか。もしくはそれと並走しながらまるで別の物語を生きようとするかのようなベースに耳を澄ますのだろうか。…それにしてもあの演奏はなぜ汲めども尽きぬ水瓶のように、聴くそのたびに新しいのか、その不思議さそのものを聴きたいということだろうか。見る対象が見過ぎることでゲシュタルト崩壊を起こすように、聴く音楽が聴きすぎて体裁をとどめなくなることは無いだろうが、聴けば聴くほど、何もないような、音と音の隙間ばかりに意識がいくような、あるいは三者の関係のあいだにたちこめている空気感ばかりに意識が向くような、その演奏が止まってしまうかもしれない危うさの瞬間をこそ探したくなったりもしながら、それにしても最初に聴いたときよりもすでに聴きすぎてしまった後の方が、その成り立ちの不可解さ、不思議さの謎が深まっていることは多いものだ。1プラス1の答えを人はわりと簡単に見失う。しかしそれは1プラス1が成立すると暗黙に了解できる地平が壊れるからだ。すぐれた音楽は常に自らを成立させる安定した地平に対して懐疑するものだろうか。こんな鬱陶しい言い方でなく、もっとあの演奏を最初に聴いたときと同じような軽やかな掴まえ方で、そこに何が起こっているのかを捉えられないものだろうか。

何度でも読み、聴き、観るということについて。たとえばセザンヌ。この画家の作品の前に立つというとき、おそらく誰もが「細部まで一つ残らずおぼえてしまいたい」という欲望を少しは持っているけど、ほぼ全員が、絵に突き放されて手酷い仕打ちを受けたとの思いで、立ち去るしかなかったりもする。それがセザンヌの厳しさだ。セザンヌの同じ作品の前に何度も、それこそ何百回も絵の前に立ったことがあるという人も、この世界には少なくないと思う。でもそれだけの経験を経たとしても、おそらくセザンヌを「制覇」したり「攻略」したり「統括」したりすることは不可能である。たとえばたかだか「美術史」とか「批評的言説」に目の前のものを位置づけあてはめて安心できる程度の人なら、その程度でやってればいいのだけれども、作品の前に立つのはそれよりもずっと厳しいものだ。セザンヌを観て打ちひしがれるとは、そういうことでもある。その「感動」とは、何かはげしく受容制御できないようなものをひたすら受け取るばかりで、それを腑に落とす力量が自分にないことへの自分への失望と表裏一体だ。