歴史といっても、結局は自分の尺度でしかわからないものなのだろう。自分の今まで生きてきた数十年かそこらの時間の記憶を、この何十年とか何百年とかに、あてはめてみて、歴史の距離感について、なんとなく自分基準で、尺度設定してしまう。これを正しいとか間違ってるとか言ってもしょうがない。そういう尺度でしか生きてないのだから、そういう捉え方をするしかない。

歴史小説の中で、旧来の考え方に囚われている登場人物が悲惨な運命を辿るような展開のとき、であれば、こうすればよかったとか、ここで転換できなかったのが敗因だとか、優秀な人物はこの時点で思い切ってこれを捨ててこれを生かすだろうとか、そういう話になるのはまったくつまらない。

たとえば、ある場所にお金が落ちていた。このお金を落としたのはAさんである。
その場所にBさんが通りかかった。Bさんは、お金に気付かず、その場を通り過ぎた。
その次にCさんが通った。Cさんも通り過ぎてしまった。
Bさんにしろ、Cさんにしろ、まったく不注意である。
その後、Aさんがやはり同じ場所をとおりかかった。Aさんはお金を落としたことに先ほど気がついていたので、それで少しがっかりしていた。
Aさんは、やはり、足元に落ちているお金に気付かず、その場を通り過ぎた。

この話は、これで終わりだ。
こうなると、いったい誰が「彼らは不注意である、もっとうまくやればお金を拾えた。あるいは取り戻せた。」と言うのか?
誰も何もわかってないはずなのだ。それを上から「もっとうまくやれば」といったような話にしてしまうのは、ほとんど愚劣の極みである。
そういう作用では何も起こってないし、これからも起こらない。しかし、そんなことに頓着する必要はない。いつでも、レンタルDVDの棚を物色していて良いのである。

僕は基本的に、いいヤツだ。良い人だ。ずっと昔、遥か昔の子供の頃から、ぼんやり、根本ではそう思っていた、のに、それが旧来の考え方に囚われているということだとなった場合、それですぐに切り替えるというのは難しい。僕は基本的に、いいヤツだ。良い人だ、と思いこむ事から、はじめて自分がはじまっている。旧来の考え方をあらためろというのは、もういちど生まれ直せという意味である。