鳥の博物館

我孫子市鳥の博物館に行った。鳥の標本がたくさん並んでるだけとも言えるけど、実際見ると、これが意外に面白くて、ずいぶん時間をかけてじっくりと見てしまった。

生涯のうちに、数万キロメートルも飛ぶ鳥がいる。何か月ものあいだ、一度も着地(停止)することなく、ひたすら飛び続ける。生まれてから死ぬまでのあいだの、ほぼすべての時間を飛んでいるのだ。睡眠はどうしているのかというと、半球睡眠といって、飛ぶなどの基本活動は継続しながら脳のはたらきを半稼働にするなど制御して睡眠を確保しているという。

彼らにとっては飛行中の状態こそが「ふだんの私」だ。むしろ地面にいる状態のほうが「特別な時間と場所の私」だ。死とは違うけど、もしかして死のような感触、のしかかってくる空気の重さと自らの重量を自分の身体に感じ続けながら、そこにいる。

彼らの認識する世界は、時速何十キロとか何百キロで過ぎ去っていくもので、つまり彼らの見る景色はほぼすべて「遠景」のようなものか。もっとも、鳥が我々と同じような視覚像を認識しているわけではないだろうけど。

ダチョウとかは眼球が異様に大きい。これは視覚が発達していることを示す。とはいえ視覚が発達してるならば、我々人間に近いイメージを知っているのかと言ったらそれは違う。むしろ我々人間の想像を越えるような認知があるのだろう。というかそれは、人間を越えるとか越えないという尺度に無関係なダチョウとしての視覚であって、それは人間と接合できるものではないだろう。

四十年とか五十年の寿命をもつ鳥もいる。足首に印を取り付けられた鳥が、数十年後にふたたび捕獲されたことがあるらしいのだ。その生涯の最初の方と最期の方、二度人間に捕獲された鳥。足に付けられた印で同定された鳥、人間の時間の尺度に二度引っ張り込まれたことのある鳥、でもそのことをとくに意に介さず、他の鳥と同じように自分の時間を生きただけの鳥だ。人間にとっての何十年という時間を、鳥も同じような単位、感覚の重さとしては感じてないだろうが、もしかすると「俺の生は短くない」と、感じないこともないのだろうか。

始祖鳥は一億五千万年前に生息していたとされる。複数の化石が残っている。爬虫類から鳥類への移行の先駆けということになるのか。三割トカゲ、七割トリ、という感じに見える。羽根があって、羽毛につつまれているから鳥類に見えるけど、四つ足の形状もまだしっかりと残ってる感じがある。

鳥類は、飛ぶのか飛ばないのか、主な活動拠点にするのは空中なのか地上なのか、移動速度は速いのか遅いのか、体色は派手なのか地味なのか、それらの要素が条件によってかなり異なるけど、そんな多様なバリエーションをもつ生き物のとりあえず第一号というのは、かなり責任重大というか、この生体の一挙手一同足がその後の全鳥類種目の運命を決めた、とまでは言えないのかもしれないが、それも人間の尺度だ。始祖鳥という名前や、始祖鳥という生き物の存在感をまず先に感じてしまうのだが、始祖鳥もシジュウカラムクドリも、彼ら自身の意識においては何も変わらないだろう。いや彼らなりの違い、自他の意識はもつかもしれないが、歴史とか進化のような人間側の抽象を彼らが信じる義理はないのだから。

ドードーという絶滅種は、ウィキペディアによれば、1507年に発見されて1681年のイギリス人ベンジャミン・ハリーの目撃を最後に姿を消し絶滅。博物館に収蔵されていた剥製も1863年に焼却されてしまった、とある。

ある種を絶滅させてしまったという罪悪感も、人間の問題ではある。「アンフェア」「浅はかさ」「自己中心的」であってはいけない、つつましさを持たねばならないというのも、人間側の尺度ではある。とはいえ「絶滅はまずい」と考えるようになること自体は、これまでの人間が学ぶことの出来たひとつの成果ではある。

それにしても十七世紀に絶滅している、そのことが記録に残っていて、十七世紀なんて、あまりにも昔過ぎるのに、その頃から今までずっと、人間の「後悔」「罪悪感」「後ろめたさ」が作用しているなんて、それはそれで、ちょっと気が遠くなるような感覚をおぼえる。