昨日の分を書いているとき、もう書いている途中で、眠くて眠くて、頭がふらふらと前後に揺れているのを、もうひとりの自分が見ていたくらいの情況で、ああこりゃあかん、もう限界だ、もう寝ないと、そう思って、今どのくらい書けてるのかもよくわからないまま、とりあえず、もういいやと思ってアップしてしまった。


そんな情況で、昨日の記述内において、あえて書かなかったことを、いま補足しておくとすれば、行きがけに、葛飾区の「ふれあい動物広場」に行ったことだろうが、これはたしかに、昨日の全記述において、映画に例えれば、撮影はしたものの編集でばっさりカットした、というような出来事である。そもそも書いてもさほどでもないと思って書かなかったのだが、これを今日、あえて少し書くとすれば、「ふれあい動物広場」ということで、極寒のなか、荒涼としたその公園につき、園内の足を踏み入れ、そこにいた山羊(ミルク、ココア、ユキの三匹)を見て、続いて豚が四匹くらい(すべて名前は忘れた)を見て、そのあとうさぎ三匹くらい(コンニャク、あとは忘れた)を見た。さらに続けよう。


たしか、豚は四匹か五匹くらいいた。あまりの寒さに、みな身を寄せ合い、とんでもない切迫感で、激しく泣き叫んでいた。日本語に訳せば「寒いー!寒いー!」という感じで、ずーっと高い声で鳴きあっている。正直、情けないというか、さすが食用動物だなという感じ。ベルトルッチの1900年でも、殺される寸前の、あと断末魔の情けなさは、勿論、豚とはいえ、いくらなんでも、あまりにも自意識というか自尊心というか、生き物として存在していることの、おのれに宿る哲学的なもの、ひとつの誇り、とでも言うべき硬質のなにかが感じられず、単にひたすら、いまこの生にすがるだけの、目の前にある死の凡庸なイメージ、そのありふれた恐怖の幻影に打ち震えているだけの、あの甲高い恐怖の叫び声が、なんとも頼りないような、殺すにしてもあまりにも手応えがないというか、それにしても、なぜ豚は、動物のくせに、これほどまでにイメージというものを知って、それに翻弄されているのか不可解ではあるものの、とりあえず恐怖に震え泣き叫んでいるのを見ているのはひたすらウザく、もうお前なんか早く死んじゃえよと思わず考えてしまう感じで、とっとと始末してそこを立ち去るほうがいいと思って、そういう、書くとしても、あまりにもなんでもないことでしかないと思って、そのつまらなさを、あえて書かなかったのかもしれない。


山羊はなかなか、可愛かった。とくにミルクは、かわいかったかな。顔立ちがよかった。お前みたいなやつが、あのものすごく臭い、癖のあるチーズを作るのか?!お前の乳から、あれができるのだとしたら、とんでもないな!お前は臭いなー臭いなー、ずいぶん恥ずかしいよ。そう心の中で毒づいている。ココアはミルクよりも体毛がこげ茶色で、それでココアと呼ばれる。後で出てくるユキは、もっと白い。食べ物がほしそうすぎて、あまりいまいちかな。でもそこに三匹いるはずなのに、なぜか、ユキだけがいなかった。なんでだろうと思ったら、振り返って、少し歩いたら、後ろのオリの中にいた!あ!これがユキかと思った。ユキはいちばん白く、目を薄目をあけて、ぐったりとしてしゃがんでいる。


そのほかには、うさぎがかなりいた。二匹いて、ひょいひょい歩いて、たまに二本足で、しゅっと立ち上がって、周りを見回す。それが、とてもかわいいので、しばらく見ていたのだが、しばらくして、気付くとそばに、ニンゲンの子供がいっぱい来て、非常にうざくてそそくさとその場を離れた。ニンゲンの子はたしかにかわいいが、急にばーっと来るので、ふれあいのときでも、やはり少し躊躇してしまう。その点、うさぎはかわいいので、これなら飼おうかと言った。面倒くさくないし、いいかも、と言ったが、でもうさぎはすごいバカだよ、なんにも、全然おぼえないし、ご主人様とかも、全然わからないし、最初からし死ぬまで、ずーっと、バカなままだからねーと言って、じゃあやめようかと言ってやめることにした。仕方なく、それで、いつもの店に戻って、オート・コート・ド・ニュイの最後の一本を買ってそれをぶら下げて帰った。