熊谷守一


竹橋の近代美術館にて「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」を観る。とくに初期作品に顕著だが、まず技術力が桁違いに凄いのである。絵は結局才能だね、という無意味な言葉をつい口にしたくなる。ものが言いたくなくなるくらいに上手い。つまり最初から、10秒台前後で走れる才能がある選手なのである。そのへんの素人と一緒に考えても仕方がないくらいの力量の差なのである。しかしそれは単なる技術力だけの話に過ぎないのである。絵は技術力の勝負とは根本的に違う。それはそれで間違いないのだが、しかし技術力と一切関係なく作品を観て感じ取ることも出来ないのである。何しろそのような突出した力量をもつ運動体が、まさぐるような手つきで年月を経て変遷していき、最後に至るまで展開していく過程としての熊谷守一作品を観て、今回はじつに色々と考えさせられた。けっこう重い体験であるとも言えた。作品群を見て、自分というものの、これらを観て良いとか悪いとか考えている自分という存在の無意味さを、ひしひしと噛み締めたといおうか。何とも言いようのない呆然とした思いでいた。


探求してある形式を獲得した結果、作品が開花したというよりも、その形式が問題を際立たせるので、結果的にそれが繰り返されたという印象を受けた。たとえば猫や牛やうさぎなど動物をモチーフにした作品、または庭先の地面に展開する微小な出来事とか、盆に乗った玉子とか、それらは絵画として確固たる存在感を示しながらも、同時に強烈な現実とのリンクが感じられて、つまり実際にそれらを観察した結果が如実に絵にあらわれているような、現実無しではけして成立し得ないことのある種の凄味が漂っているように思われる。描く視線が、明確に現実を見ている。動物を見る、風景を見る、あるいは地面を見る、足元の様子を見る、そういうときの現実的な手応えのすごさ。ざらつくようなリアリズムから生まれてくる、何かの証拠として示された作品、といった感じでもあるのだ。僕はある意味、ほとんど写真のような、写真というよりもその記録性というか、記録・日記性のような、ある執着のようなものを見ている感覚に陥る。それがたしかにそのようであったことを執拗に記述する力である。


一方の植物、花、枝葉、あるいは小さな昆虫、また鳥類もそうかもしれないが、それらをモチーフにした作品には、ほとんど現実を問題にせず、規律もけじめなく広がる一方の世界を志向するかのような奔放さというか幼児性というか暗い世界へ沈降しようとする意志のようなものが感じられるように思う。これらの作品にたとえば日付は与えられていないというか、現実に見たことを保証できる何の証拠もないというか、作品としては強いのだが、ただ宙吊りのままで脈絡なくぽっかりと浮かんでいるような強さとして在るのだ。


そのように異なる印象の大まかなタイプを感じながら、ではそれがどんな問題を際立たせるのか?について説明するのは結局のところ難しい。いわば絵画の不思議さのようなものを際立たせるのだなどとしか、さしあたり言えない。少なくとも初期〜中期にかけてもやもやと不定形にあらわれていた諸問題が、後期にある時期に一挙に整理されて、問題として解決はされていないがかなり操作性が良くなってじっくりと取り扱うことが可能になったという、そのような突き抜け感はあるのかもしれない。ことに風景が、山の連なりとか海とか岩とかが、ああして形となって重なり合って、それがそのままはっきりとこれまでの取り組みとは違う段階でひとまず落ち着いて絵画化された状態の何点かを見ると、それこそ、その画家の目の前に大きな問題が今開けてきたのを追従して見ているような気にさえなる。


こうしていくら書いても空しいだけだというのも、書くまでもないのだが書かざるを得ない。つまり、そういうことではない。実際はもっとどうしようもない、荒んだような気持ちで、会場を歩いているのである。