ポプラの、独特の光沢をもつ葉が茂り始めて、昼間の光を受けて木全体が電飾を付けたみたいにきらきらと明滅しているのを見上げる。クスノキの落葉する葉と新しい葉の褐色と緑色の割合は少しずつ緑が増えてくる。桜は花が散ったあとの寒々しくみっともない一時期がようやく終わって、がくをポロポロと地面に落としながら若々しい緑色が浮かぶように広がりだす。この時期の新緑が勢いづく感じには毎年のことながら目を見張る。伸び、うねり、絡み、堆積して、そこからまた伸びる。今まさに動いていることそのものを見ているようなものだ。ハナミズキの花もやはり去年のように咲く。


渋谷に行って、めがね屋でめがねをみた。だいたい、アレかアレを買おうと思っていたのだけど、もう一度よくよく見てみたら、どうも自分に似合ってるとも思えなくて、結局、まるで想定していなかったようなかたちのヤツを買った。結構ふつうというか、まあ、こんなもんでしょ、というようなヤツ。遠いところがよく見えるためのめがねなので、普段はたぶんあまりかけないと思うが、映画や美術の展覧会などではかなり使うだろう。視力検査をして、度数を決めて、何枚かの調整用レンズが重ねられた仮めがねをかけて、最初は少し浮遊感があると思いますけど、そのまましばらくかけていて下さいといわれて、店のなかを見回しながら歩いたら、たしかに一瞬すごい酩酊感というか、まっすぐに歩くのも難しいようなふわふわ感を味わって面白かった。これはこれで、あまり慣れたくないので、やはりたまにかけてこの違和感を楽しみたいと思った。そして確かに遠くがよく見えることは見えるが、まあこんなものか、という感じでもある。遠くというか、遠くにいる人の顔をやたらと見てしまう。遠くにいる人の顔の細かいところまで見えるというのが、かなり新たな発見という感じだ。


ヒカリエというところに行ってみようかと思ったのだけれど、建物はわかるけど行き方がわからないというか、駅からどうやってあのビルに入れば良いのかわからず、面倒くさくなってヒカリエはやめて、渋谷区ふれあい植物センターまで歩くことにした。渋谷はいつも異常なまでの人混みだが、渋谷川を脇を入って川沿いに歩くと、ほとんど一人か二人としかすれ違わないくらい閑散としている。駅からほんの少ししかはなれてない時点での、この極端さには驚く。その後しばらく歩いて植物園の建物に着いて、百円を払うと、今、ヒスイカズラが咲いていますよと教えてもらう。ヒスイカズラってなんだろうと思う。


ムッとするような熱帯雨林的湿度の中、水びたしにされて水滴にまみれた南国的な植物たちが生い茂っている。日本にふつうに生息してはいないような植物が多い。見ていて、シダ類・苔類がすごくいい。僕はそういえば昔、中学生の頃は苔・シダが好きだった。今の好きと昔の好きは違うのだが。やはり、苔はいい。じっと見ていても飽きない。とてもきれいだ。というか、植物をみているのは絵をみているのと似ている。むしろ絵が、植物に似ている。これはなぜだろうか。絵は、ふつうに描くと、というか、絵というもののうえにあらわれる運動のパターンとして、どうしても植物の生息するときに似てしまうのだろうか。動きとして、絵のできる流れと、植物の育つ流れは、共通する形態感があるように思われる。苔の密集感や、葉の茂って展開する感じや、つぼみから花が開いてそのまま花弁が下に垂れ下がる感じなど、何もかも絵の動きに重なるとしか思えない。


クスノキの葉はいつもそうだが、短い縦ストロークの筆触で描かれた絵のように見えるが、あれなど、クスノキを絵に描くとすればセザンヌの筆触のように細かい縦のストロークを使うしかないと思わせるが、そう考えている人間の考えをクスノキの方が先取りしているかのようにさえ感じる。しかしクスノキは内側から育つだけで外側から自分を描かないし、自分が外からどう見えているか知らないだろう。植物と絵の場合、その知らなさにおいて、どうしても植物の方が強く、絵は外から見たことを知ってしまっている限界のなかで存在を主張するしかなく、絵の場合はどうしても、絵は自分というものがどういう絵かを知っていることになり、そこに、いや、私は知らない、と感じさせるようなものだと、それがかえって、植物が内側から独自の法則にしたがって育っていることに近づくことになるのかもしれない。独自の法則でありながら、これは植物という類であると思わせるような在り方であること。


ところで絵を描くとき、たとえば植物のようになってしまうことはあったとしても、人体のようになってしまうことはないのだろう。というか、人体も植物的フォルムの寄せ集めでできているともいえて、その意味では人体を形態としてそれなりにとらえようとすれば、結局は植物とクロスするようなことになってしまうかもしれない。人体の場合はだから形態・パーツとしてとらえると結局植物の一部みたいになってあまり面白くなくなってしまう。それに水や土との密接な関係性がわかりやすくは見えないので、余計にそれ単体としての退屈さが見えてしまう。それだから衣服、あるいは道具や居住空間との関係性に活路を見出したいようなことも思う。


ヒスイカズラは冗談のような青紫の、メノウとかエメラルドのような色の、プラスティックのように嘘臭く軽薄な、しかしその花の単位がいくつも折り重なって小さなバナナ状にぶら下っていて、全体的には異様としか云いようの無い姿でそこにあった。フィリピンの一部の原生林にしか生息していないのだそうな。