冬・スズカケノキ

真冬の小石川植物園は、葉を落とした木々のせいだと思うが、木々と木々の間がすっきりとしていて、なんだか園内全体の樹木が少し間引かれたかのような、妙に風通しの良いような、空間全体が緩く広がったような雰囲気をたたえていた。

いつものスズカケノキも、幹の白さが周囲から浮かび上がるかのように、やけに生々しく映えていた。僕はいつも、このスズカケノキを見るときは、美術館ですでにしっかりとその盤石の良さをわかっている絵画の前に立つときと同じものを感じている。汲みつくせないほど豊かなものをこちらに向けて発してくるのをあらかじめわかって、それを見ている。この植物園全体がいわば美術館の常設展示のようなもので、サクラや温室のある一画を抜けると、いつもの場所にスズカケノキは「展示」されているから、幾本かあるうちの、ひときわ白い二本の木を、いつも見上げる。いつもの壁に架かっている絵を観て、自分の感覚がそこから別の場所へ瞬間移動するのと同じように、スズカケノキの木肌と枝の広がりを見ているうちに、自分は今このような生物であることから一瞬だけ離脱して、たまたま今そうであるに過ぎない作用/反作用の処理中媒体となる。彼らと自分が、たまたま今いる条件で互いを認め合いながらこうして出会っている、その偶然性のようなものを、まざまざと感じている。

真冬の木々は香りを発しないものだ。梅は別だけど、ほとんどの針葉樹たちや常緑樹たち、木々はいま、まるで静かに何の呼吸もしていないかのようだ。呼吸をし匂いを発しているものがあるとしたらそれはむしろ土だ。細かく屑のようになった枯葉を少しずつ分解している土だけが、足元からその匂いをかすかに立ち昇らせているのだ。それを靴で踏みしめた音と共に感じている。

小石川植物園の「ストーリー」は、訪れるたびごとに、何度も繰り返し味わってきた。でもこれまで逆向きに歩いたことはまだ一度もない。本来どちらが順路で逆路なのか、とくに決まりもないのだろうけど、自分らの行き方はいつも一緒だ。すれ違う人も多いのだからもちろん逆から歩いても良い。また季節が変わったらいずれ。