失くすな

めがねを、失くした。さすがにもう、いいかげん、モノを失くす癖を、あらためられないのか。どこで失くしたのか、ぜんぜん心当たりが無い。めがねは、ふだんは僕はしてなくて、たまにするとしたらどこなのか、最近、どこでめがねをしたのだろうか、一番最近の記憶としては、埼玉の美術館だが、あのときに失くしたのか、でもあれはすでに一週間以上前、さすがにそのあと、もう一度や二度はしてないだろうか、記憶にない。たとえば外で酒を飲んでるときなど、大いにあやしいのだが、金曜日の店にはめがねを持って行かなかったから、あそこではない、土曜日の店には電話したらその日めがねの忘れ物はなかったという、それなら、どこなのか、なんの手がかりも引っ掛かりもない、

来年早々に使うから、もう一着喪服を作りたい、しかしそれが済んだら、しばらく着ないんだから、今から買うんじゃ遅いというか勿体ないけど、やっぱり買いたい、靴ももう一足買いたいけど、それも遅すぎる、が、まあいいじゃないか、めがねだって、また買えばいい、あと忘れてるけど、なんかもう一個買いたいものあったんだけど、なんだっけ、そうやって一生、失くしたりまた買ったりしていればいいさ、ばかは死ななきゃ直らないとはお前のことだ。

次からはもう、二度となにも失くさない。手元で、何もかも、いつまで経っても手元から離れていかず、ずっとそのままある、ずっとそのままで、靴も古びないし、服も綻びたりしないし、食器も割れないし、窓ガラスはぴかぴかのまま、植物は枯れない、テレビはつけっ放し、お湯は鍋の淵までなみなみと煮えたぎったまま。すべての酸化が止まったまま。

モノを失くすなんて、どれだけズボラで間が抜けているのか、そんな注意力散漫なことでいいのか、俺はモノを失くしたことなど生まれてこのかた一度もないぞ、自分の持ち物はすべて自分でどこにあるかをわかっているぞと、子供の頃父親に叱責されたのをおぼえている。その父親も晩年は上京したホテルに携帯電話を忘れたり、食事の席で話に夢中で机上のグラスを肘で倒したりしていた。やれやれだ、まったくそんなものだ。