もしかして、もう萩が咲いてるかもしれないと、とくに事前の調べもせず根拠もない期待をかけて茗荷谷小石川植物園へ。入園の際に、ちょうど彼岸花が満開ですよと受付の人が言う。たしかに彼岸花はすごかった。森の茂みの薄暗闇を背に、ぼっと浮かび上がるような赤い飛沫がところどころに飛び散っている感じ。でも彼岸花って、それほどきれいだと思わない。埼玉の実家の裏の土手にも、この季節になると無数に咲いていたのをおぼえている。この季節になると、じめじめとした薄暗い場所に唐突にあらわれる。いきなり旺盛な生命力が出血をともないつつ出現したみたいな感じで、何しろ縁起がいいような気がしない。そりゃお彼岸の花だからあたりまえで、むしろ如何にもそういう禍々しい気配をたたえているのだからそれ向きなのだろうけど、とにかく見て楽しい花ではないと思う。


それにしても半月ばかり前の千住でも思ったが、どうも夏の終わりの植物園はだらしがなくてダメだ。みんなぐったりしていて、見た目も良くないし、針葉樹の群生地帯に入っても特有なアロマ感とかいっさい無い。まったく香らなくて、爽やかさゼロで、中途半端なマツボックリやら針葉やらがぼたぼたと地面に落ちているばかりで、やはり疲れて力を抜いた生き物の生臭さの方が勝っている。


しかしふと、ああこの匂いは、と思った瞬間があった。それは木々の香りではなくて、油絵の具の匂いだった。スズカケの木を描いている初老の男性がいて、その画材の匂いが風に運ばれたようだ。揮発油ではなく乾性油の匂いで、ああなつかしいなと思った。高校生のとき校門から入ってすぐの場所にイーゼルを立てて校舎を描いたときのことを思い出した。午後からはじめて夕方が終わるギリギリまで粘って描いていたら、それを職員室から見ていたらしい教師が、のんびり散歩でもするような足取りでこちらへ近付いてきて、僕の絵を見て笑いながら「お前さん、もうこんなに暗くなってるのにまだ描くのか?夜になったら描いてる絵も見えなくなっちゃうだろ。」と言う。たしかにそれはそうだった。もうすでに暗くなり過ぎていた。はい、そろそろ終わりますと答えた。その教師は嬉しそうだった。なぜそんなに嬉しそうなのか、よくわからなかったのだが、今思い返すと何となくわかる気もする。職員室から見ていて、一箇所をずーっと動かずに夕方過ぎまで絵を描いてる学生がいたら、それはたしかに楽しいと思うかもしれないからだ。その教師はたしか社会の先生で、たぶん数年後に校長になったのではないかと思う。


さて萩だが、まだ全然咲いてない。一分咲きとも言えない。だいたい0.1分咲きくらいか。それにしても、これもいつも思うことだが、萩という花も実際それがきれいに見えるかどうかは微妙だと感じてしまう。花札の図柄とか、琳派の障壁画とかに描かれる萩は様式に枠取られていてとても風情だと思うが、現実の萩はまるで雑草の如くぼわっと生えて、これで花が咲いたとしても、叢と呼びたいような塊の先にいくつもの小さな花が地面を向いてぶら下っているような感じで、これをうつくしいと呼べるのか否かは判断が難しいといつも思う。前述したようにこの季節の下で植物たち全体がだらと弛緩しているような空気だから、そう思うのかもしれない。これで朝晩ぐっと冷え込みを感じるようになると、また違うのか。まあ今月下旬か十月初頭あたりに、再度確認かな。