朝起きて、支度をしたのち、亀有の映画館まで行って「風立ちぬ」を観る。大正時代から終戦にかけての時代を、こういう風に絵にして、関東大震災の描写や、軽井沢のホテルや、そういったものを観られたということだけでも、ある種の嬉しさがある。しかしなぜ、こんな話を?と言う驚きもある。そして最初から最後まで、ここにはすくなくともポニョにあったような驚きはないという意味での物足りなさもある。とはいえ、現時点でしみじみとした満足感も残っており、いつかまた観てしまうだろうという予感もある。エンジニアという職業の人物が、うつくしさと称する抽象性を志向することへの無条件肯定があり、そこにやや言いがかりめいたようなほんのいくばくかの反駁を感じもする。しかしこの映画を作ったのは巨匠みたいな老人で、巨匠だからこういう映画を作れるということなのかとも思う。画面内に、ふいに風の立つ描写がはいって、そこで恋人との関係が入ってくる感じとか、夢でのイタリア人エンジニアとのやり取りとか、とてもいい。ホテルの食事のシーンで、手前で新聞読みながら大量のクレソンを食べているドイツ人に隠れてしまう位置から、恋人の女が奥の席にいて、こちらに気付くようなところなども実にいい。あと、荒井由美の曲もいいけどかなり耳に貼り付いてしまう。堀辰雄の「風立ちぬ」は大昔に読んだけど、さっき青空文庫で冒頭だけ読んでみたら、まあこれは実にうっとりとするような、まさにその気にさせる感じの、いい感じなので、このまま勢いに乗ってその気になって再読しようかしら。


帰ってから夕食。けっこう飲んで、食後に就寝。さっき起きた。いまは暑い。蒸す夜だ。


昨日は実家で母親と妹夫婦と我々夫婦で宴会。ひたすら酒をのむことになる。妹の娘は、姪、ということになるのか?自分は伯父、ということになるのか?その子はいま、一歳半で、自分がこうして、その一歳半の子に好かれたいと思って、色々としたり、そっぽを向かれて嫌われて失望したりするような、そういうものか。だろうな。夜になって、皆で外に出て、遠くで上がる花火を見た。周囲にぞろぞろと、花火の見物客が、老人や家族連れなど、たくさんいた。この人たちって、誰?ご近所の人?と妹に聞く。この付近に、こんなにたくさんの住民はいないはずなのだ。そうしたら最近、近くに集合住宅や一戸建て住宅がたくさんできて、その一帯の住民だろうとのこと。そうなのか、このあたりにもそんな、新興の住民がいるのかと驚いた。自分の実家の周辺なんて、このまま誰もいなくなって、いつか場として滅びていくものかと、勝手な思い込みを、思うでもなく思っていたのかもしれない。それにしても、ビール、日本酒、ワインのごちゃごちゃな飲み方で、最後に出したワインが、ちょっともったいなかった。自分が、もっと良好なコンディションで、開けてあげたかった。しかもまだ、三分の一残ってたけど、置いてきてしまった。あれ、持って帰ってくればよかったと、くよくよ後悔している。帰りの電車は混んでいた。地元は夏祭りで、浴衣の若者でいっぱいで、さらに西部ドームでも、何かのコンサートがあったらしく、同じTシャツで同じタオルを首にかけた若者でいっぱいで、電車が労働者ではない者たちでいっぱいになっていて、それは自分の過去の記憶がここでは今もまだそのまま、という感じにも見えた。まだこの世には、これほどたくさんの若者がいるのかと思った。しばらく、こういう若い人たちをふだんは、まったく見かけないのだが、いつもいったいどこにいるのか。


帰ってすぐ寝た。